教皇「どこででも、だれもがオアシスを見いだすことができる」

いつくしみの特別聖年

いつくしみの特別聖年のための祈り

いつくしみの特別聖年のための祈り

先月の日韓司教交流会で宿泊したホテルの入り口にはもうクリスマスの飾りつけがしてあって驚きました。11月半ばだというのに、気の早い世の人々に感心したものです。もちろん、ホテルの人と私たちのクリスマスに対する思いは異質のものです。

つまり、ご降誕のミサにあずかってはじめてクリスマスをお祝いすることになるという点で異質です。そして、待降節を特別な思いで過ごし、降誕祭後もその余韻に浸りながら降誕節を過ごす点でも、クリスマスセールに浮かれ、年末商戦にまい進する世の人々とは明らかに違います。

何よりも、今年の待降節は私たちにとって特別のものです。12月8日(火)をもって「いつくしみの特別聖年」が始まるからです。いつもとは違う質の待降節にすることが求められています。違う質にするというのは、もちろん待降節の意味や質が変わるわけではありません。

わたしたちの信仰者としての生き方の質を変える必要があるのです。つまり、もっと真剣に福音の心を生きようとしなければならないのです。教皇が言われるように、「キリスト者がいるところはどこででも、だれもが、いつくしみのオアシスを見いだすことができる」(大勅書・12)ような生き方が求められています。教皇はまた、「裁かないこと、罪に定めないこと」(同上・14)と諭され、「ねたみやそねみ…兄弟の悪口」(同上)に気を付けるだけでなく「赦しの道具となりなさい」(同上)とすすめておられます。

細かなことは述べることができませんが、待降節の間、大勅書をみんなで読みながら「身体的な慈善」と「精神的な慈善」(同上・15)についても何ができるか考えていただきたいと思います。

こうして、神様のいつくしみの心に倣うという一点に気持ちを向けることでこれまでとは違う質の待降節になるはずです。

ちなみに、聖年のモットーは「御父のようにいつくしみ深く」となっています。