み心に対する信心

6月と言えば梅雨の季節。しかし、私たち信者にとっては、六月と言えばみ心の月。中央協議会のホームページの解説によると、み心の信心は「17世紀にフランスで広まり」、「1856年に教皇ピオ九世によって祭日として祝われるようになった」のだそうです。

歴史的なことはともかく、イエスさまは、聖マルガリタ・マリア・アラコック(1647~90)に「愛情に燃えているみ心を示して、人々の間に(愛が)欠けている冷淡な心を嘆かれ、イエス自身の愛に倣ってその心を尊ぶことを勧められました」(同上ホームページ)。

「人々の間に(愛が)欠けている冷淡な心」が具体的にどんな状況を指しているのか分かりませんが、1517年の宗教革命と1789年のフランス革命のほぼ中間の時代であることから察すると、自由の名のもとに自分のことを第一に考える風潮が社会を覆っていたのかもしれません。

イエスさまの「出現は数回に及んだ」と解説にはあるので、「(愛が)欠けた冷淡な心」は、当時のフランスで社会問題を引き起こすほどに深刻なことだったのでしょう。そうだとしたら、今の時代となんら変わらない状況があったと言えます。そうすると、み心の信心は時代遅れどころか、まさに今こそ必要な信心の一つということになります。

ベネディクト十六世も2006年のイエズス会総長宛の書簡で、「『槍で刺し貫かれた脇腹』を仰ぎ見ること(み心の信心)を、過去の礼拝ないし信心の形と考えてはなりません」(同上)と述べておられます。

いつも推奨している「起き抜けの祈り」で「今日も主の愛のみ心に倣いたい」などの射祷とともに一日が始まるみ心の月であるよう祈ります。

※(愛が)は筆者加筆。