日本へ日本へ

門田明氏の鹿児島とキリスト教⑧

先号では、ザビエルがひたすら日本に心をひかれ、「大暴風、たくさんの浅瀬、無数の海賊の危険があり、とくに暴風雨のために三隻のうち二隻が到着すれば、大成功とされている」大変な航海に乗り出そうと決心したことを紹介した。

その同じ手紙で、出発の日取りを「1549年の洗礼者聖ヨハネの祝日(6月24日)の昼か夕方に、出航する予定です」といっている。その予定のとおり、この6月24日の午後、アパンというシナ商人の船でマラッカを出航したのである。この予定と実行の状況から、私は、ザビエルが宗教だけでなく実務能力にも優れた人物であったという印象を受ける。

さて、日本への航海は実に危険なものであった。少し長いが書簡をそのまま引用したい。

マラッカを出たザビエルの船は「ゆるやかな船足でシナに向かい、コーチシナの海岸に沿ってゆっくり航海していました。シナのすぐ近くまで来た時、聖マリア・マグダレナの祝日(7月21日)の夕暮れ、一日のうちに二つの惨事が起こりました。波が高くなり、しけ模様となってきましたので船を停泊させていました。その時どうしたわけか船のハッチが聞いたままになっていて、私たちの仲間、シナ人のマヌエルがそこを通った時、大波で船が大きく揺れたため、立っていられなくなってハッチの中に落ちてしまったのです。」

ひどい落ち方で重傷を負うが、マヌエルは健康を回復したようである。この箇所、直訳では「船のポンプが開けたままで」と書かれていると河野訳は注記している。山田尚二『キリスト教伝来と鹿児島』(95頁)でも、「木造船のアカ取りのための細いポンプ穴だろう」と説明し、ハッチのかわりにすべて「ポンプ穴」としている。

いまひとつの悲劇は、船が大揺れに揺れたために船長の娘が海に落ち、人々の目の前で溺死したことである。なんとも悲痛な航海であった。(玉里教会信徒・ザビエル上陸顕彰会会長)

鹿児島カトリック教区報2006年12月号から転載