E・ラゲ神父

門田明氏の鹿児島とキリスト教㉑

1549年8月15日、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝えた。その後多数の宣教師が日本にキリストを運び、禁教令がしかれた後も、信徒から信徒へ教えが広まっていった。前回は若くして牢死した宣教師シドッチについて話したが、今回はE・ラゲ神父について語りたい。

もう40年以上も昔のことになるが、初めて鹿児島の土を踏んだとき、最初にフランシスコ・ザビエルとラゲ神父の名に触れる機会があった。ザビエル教会を訪れると、ザビエルの壁画などと一緒にガラスの箱の中に、ラゲ神父を記念する資料が保管されていた。

ラゲ神父を知ったのはこれが最初だったと思う。その後それほどラゲ神父について勉強することもなかった。われながら迂闊なことだったと今になって思うが、参考書を頼りにここで学んでゆきたいと思う。

ラゲ訳聖書(鹿児島カテドラル・ザビエル教会所蔵)

ラゲ訳聖書(鹿児島カテドラル・ザビエル教会所蔵)

ラゲ神父は1854年、ベルギー西部のトウールネー市に生まれた。神学校で学んだ後、1877年パリ外国宣教会に入会し、1879年25歳で司祭になると、すぐ日本に渡った。

けた外れの記憶力でたちまち日本語が自由に使えるようになり、北九州を中心に宣教活動を行った。1889年、信教の自由を掲げた明治憲法が発布されると、クザーン司教は九州の宣教をラゲ神父に一任した。

その頃鹿児島では島田喜蔵神父が旅館の一室で布教活動を始めていたが、1896年島田神父の後継者として、ラゲ神父が着任した。鹿児島での彼の仕事で特筆されるのは、石造りのザビエル聖堂の建設と七高教授小野藤太の協力で実現した仏和辞典の編集、『新約聖書』の翻訳である。

残念なことに聖堂は、日米戦争の最中の空襲で、石の外壁だけを残して炎上し、長く残骸をさらしていた。今、その石塀の一部がザビエル公園に移設され、昔を偲ばせている。こうして彼の事跡を振り返るとき、彼の名が人々の心の中にもっと蘇って欲しいものだと思う。(玉里教会信徒・ザビエル上陸顕彰会会長)

鹿児島カトリック教区報2008年5月号から転載