キリストの福音上陸の地・鹿児島

司教の手紙③—神の国と聖体

投稿日:2019年3月30日 更新日:

皆さまお元気でしょうか。今回は「神の国と聖体」についてお話したいと思います。「聖体」は、信者の皆さんにとっては自明の信仰の真理でしょう。それを頂くためにミサに参加しているといっても過言ではありません。今回は、その真理について時間をさかのぼって検証してみましょう。

発端は、イエスの復活の日の出来事です。イエスがイスラエルを解放して下さると望みをかけていた2人の弟子がエマオという村へ向かって歩いていました。暗い顔をして歩いている2人に1人の旅人が寄り添います。「どうしてそんなに暗い顔をしているの?」と旅
人は2人に尋ねます。

2人はナザレのイエスのことを話します。「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです」(ルカ24・19~20)。話は続きます。「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ『イエスは生きておられる』と告げたというのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言った通りで、あの方は見当たりませんでした。」(ルカ24・22~24)

その後、2人は目指す村に着きましたが、暗くなったので、この旅人も一緒に泊まるように誘います。そして、大事な場面に出くわします。「一緒に食事の席に着いた時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(ルカ24・30~31)

ところで、この旅人が実はイエスであったということは、福音記者のルカは、すでに述べています(ルカ24・15~16参照)。ポイントは2人の弟子が、この旅人が復活したイエスであることをどの時点で分かったか、ということです。それはイエスが「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡した」時だったのです。これは最後の晩餐でのイエスのしぐさと言葉です。これで弟子たちは理解しました。復活したイエスはこのパン(聖体)の姿で私たちとともにおられることを。

では、この聖体と神の国との関係はどうでしょうか。イエスは言われた「これは多くの人々のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(マルコ14・23~25)と。つまり、聖体は「イエスの御体と御血」からなっており、御体は神の国に至るまでの人生の旅路の糧であり、御血は神の国の完成まで私たちの罪の許しのために流される生け贄の血である、と教会は理解しています。ですから、私たちは、ミサの中で、聖変化の後に高らかに宣言します。「信仰の神秘、主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」と。

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