キリストの福音上陸の地・鹿児島

司教の手紙⑪—教皇訪日からキリストの到来へ

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皆様お元気でしょうか?

2019年も余すところ1か月となりました。教皇訪日を経て、私たちは新たな気持ちでクリスマスを迎えようとしています。そこで今回は、待降節を過ごす姿勢についてお話しします。

700年後に実現したイザヤのことば

まず、待降節のことをラテン語では、Adventus(アドベンツス)と言います。これはAd(「近くに」を意味する接頭語)とvenire(「来る」)の合成語です。まさに「到来」という意味です。日本人には鴨長明の「方丈記」にあるように、時間の流れを川の流れに例えてこの世の無常を諦観する傾向があります。しかし聖書の世界では、国難の危機の中で救いを求めている民衆に、希望を届け続けている預言者の存在があります。

マタイ福音書では、イエス・キリストの誕生を「預言者を通して言われていたことが実現した」(マタイ1・22)という風に理解しています。そしてその実例として「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤ7章14節の文章を引用しています。イザヤ預言者によってこの言葉が発せられたのは、紀元前720年ごろのユダ国のアハズ王の時でした。イスラエルの北二つの国が自分のところに攻め上がろうとしている時、さらに北にある大国のアッシリアに援軍を頼もうか、躊躇している時の話です。結果的には北イスラエルだけがアッシリアに併合されて、ユダ王国は存続できました。ここで言いたいのは、マタイ福音書によると、イザヤが発したこの言葉は約700年後に実現したことになります。

「神はわたしたちと共におられる」

さて、マタイ福音書は、この句の次に「これは、『神は私たちと共におられる』という意味である」(マタイ1・22)という説明を加えています。この「神は私たちと共におられる」はその後、2回記録されています。1回目は「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18・20)。2回目は、「あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方とともにいる。」(マタイ28・20)です。

旧約の長い時間の経過の後、時が満ちて、この地上に誕生した救い主イエス・キリストは、30数年の地上での生活を終えたのちも復活したキリストとして、私たちと共にいるということをマタイ福音書は伝えたいのだと思います。

典礼の紫色は人間の罪を自覚する色

さて、クリスマスまでの4週間、ミサの中で司祭は紫色の祭服を着用します。紫色は仏教では高貴な色とされていますが、カトリックでは、人間のありのままの姿を自覚する色とされています。人間のありのままの姿とは、人祖アダムの子孫として、彼らが犯した罪(原罪)の傷を背負っている事実、また自ら犯した罪の結果、神との絆が弱められている現実のことです。この時期、そのことを受け入れ、素直に神に赦しを求めることができるように祈りましょう。

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