キリストの福音上陸の地・鹿児島

司教の手紙⑰「イエスの聖心の月」に寄せて

投稿日:2020年5月29日 更新日:

教区の皆さまお元気でしょうか?
教会は伝統的に6月を「イエスのみ心の月」として祝います。
「聖体の祝日」を祝った後の金曜日がその祝日です。今年は6月19日になります。聖金曜日がイエスの受難の日ですが、その日以外に再度イエスの十字架上での死の意味を新たにする日でもあります。

「イエスのみ心」の信心の聖書的根拠

「イエスのみ心」の信心の聖書的根拠は次の箇所です。「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水が流れ出た」(ヨハネ19・34)。ヨハネ福音書だけに記載されているこの文面を具象化した御絵は有名です。衣服をまとったイエスの左胸にいばらで包まれ心臓が槍で刺され血がにじみ出ている様子がはっきり見える絵です。非常にリアルな絵なので印象に残ります。この絵の作者はこの心臓を神の愛だと言いたいのです。心臓は臓器の一つですが、昔から人の心の象徴でした。現代でもハート絵柄は愛を示しています。

ところで、このハートで表されている神の愛の特徴は何でしょうか。それは「血」と「水」です。

これは、多くの人のために流されるわたしの血

まず「血」から説明します。十字架上で殺されたイエスは、洗礼者ヨハネが呼称していたように「世の罪を取り除く神の子羊」そのものでした。(ヨハネ1・29)。また、イエス自身が、最後の晩餐の席上で遺した言葉、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血」(マタイ26・28)の通り、ご自分の命を人類のために捧げたものでした。このことにより、私たちは神の愛を知ったのです。

わたしが与える水を飲む者は決して渇かない

「水」については、ヨハネ福音書に次のような件があります。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7・37~38)。また他の個所では、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命にいたる水がわき出る」。(ヨハネ4・14)ここで言われている、その人の「内」とはその人の「心」と同義語です。つまりイエスは私たちに生ける水をくださる、それだけではなく泉までくださいます。泉とは聖霊のことです。(ヨハネ7・39参照)

すなわち「血」と「水」とは、私たちの罪を洗い清め(贖罪)た後、いのちの水(イエス)が湧き出る聖霊をくださるということになります。

心を変えてイエスのみ心に近づきますように

この4か月間、地球上の人間は新型コロナウイルスに苦しめられました。創世記のノアの箱舟の話の中で、次のような件があります。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」。(創世記6・5)そして、洪水引き起こすことになります。初代教会の教父たちは当時、教会のイメージとして、ノアの箱舟を描いていました。神に忠実なノアの家族とあらゆる種類の動物たちが、この箱舟によって救われました。逆に洪水で滅んだ人たちは、神の警告に従わなかった人たちでした。

最近見たNHKテレビのコロナ感染防止のキャッチコピーは、「自分が変わらないと、日本は変わらない」でした。換言すれば、心を変えましょう、ということでしょう。私たちの心が、少しでもイエスのみ心に近づくことができますように。

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6月は「イエスの聖心の月」です。イエスの心臓が茨の冠で拘束されながらも愛の炎を燃え上がらせているご絵を思い浮かべてください。このような熱い愛を、洗礼の恵みを私たちは受けているのです。