屋久島に上陸したシドティ神父のこと
教区の皆さま、お元気でしょうか。
今回は世界宣教の日(10月23日)に因み、禁教令下最後の宣教師シドティ神父についてお話します。彼は、1708年屋久島に上陸、すぐに捕らえられ、長崎の奉行所で尋問を受け、翌年、江戸に送られ、キリシタン屋敷に収監されます。そこで、4回にわたり、新井白石の尋問を受けます。1710年尋問後、シドティ神父は、自分を世話していた夫婦(長助・はる)に洗礼を授けます。このことが原因で、1714年、彼は牢獄で亡くなりました。44歳の生涯でした。
シドティ神父はわずか6年間の日本滞在でしたが、非常に稀でしかも濃厚な人生であったと言えます。現在、彼の出身教区シチリアのパレルモ教区では当教区が提出した「シドティ神父、長助・はるの列福申請書」が教皇庁列聖省に受理され、これから、列福に向けての正式な調査が始まろうとしています。
一般常識では、「シドティ」と聞くと江戸中期、儒学者で、政治家でもあった新井白石が、彼から聴聞した結果を口上書として徳川将軍へ提出し、後に発刊された「西洋紀聞」と「采覧異言」を思い出す人が多いと思います。その結果、鎖国政策の中でも、江戸幕府は、シドティを通して西洋の事情に通じていました。
その意味で、シドティの功績は大である、との評価が一般的です。(注、これまで日本語の書物では、シドッチ、あるいはシドッティとカタカナ表記されていましたが、今回は、イタリア人でシドティ神父の研究家の原語表記の厳密な検証結果に準じてシドティと表記しています。)
それでは、私たちはカトリックの立場として、宣教師シドティのいくつかの特筆すべき点をお話します。
教区司祭は宣教師?
「宣教師」というと一般的には「キリスト教国の人が、キリストを知らない国へ行ってキリストのことをその土地の人々に知らしめる」使命を帯びた人のことを指します。従って、日本人の私たちには「宣教師とは、常にキリスト教国である欧米人である」という潜在意識があります。
もう少し厳密に言うと、カトリック教会の中では19世紀までは、宣教師というと修道会(イエズス会、フランシスコ会、アウグスチノ会、ドミニコ会など)の会員のみでした。そのためか、当時の情報ではシドティ神父の所属は、イエズス会とか、アウグスチノ会と表記されていました。もちろん、19世紀後半からは、元来、教区司祭でありながら宣教熱に駆られて、非キリスト教国に派遣される、宣教会が組織されます。
(例えば、パリミッション会、ミラノ宣教会、聖ザべリオ宣教会などです)。このことを考えると、シドティ神父の場合、1708年の来島なので、つまり、修道会全盛期のころ、修道会の支援なしに、いわば単独行動だったと言えます。彼はシチリア島のパレルモ教区司祭だったからです。
何故、彼は、禁教令下の日本に潜伏しようと目論んだのか?
彼は、優秀な司祭だったので、ローマ教皇庁の公証官に召されます。公証官とはこの世の職業でいうと政府官僚にあたると言えます。つまり、1622年に創設された福音宣教省(非キリスト教国の事情を把握し、宣教体制を総合的に判断し、教皇に進言する部署)に保管されている、禁教令下におかれている日本の教会の詳しい事情に触れることができました。
当時の日本では徳川幕府の信者に対する厳しい弾圧は、1637年の島原の乱平定まで続いていました。それでもなお、1641年、潜入したルビーノと4人の宣教師(フィリッピンから来たドミニコ会士)が捕縛され、その後、殉教する、という記録があります。シドティ神父が来島したのは、それから67年後の事でした。
シドティ神父の来日の目的はただ一つ、徳川幕府の将軍に会って、禁教令を解除してもらうことでした。教区司祭の身分で、当時、修道会の後援もなしに、殉教を覚悟で日本へ潜入できたのは、ひとえに「自分はローマ教皇庁からの使者である」との自覚であったと思います。しかし、実際には教皇庁の上司たちは、シドティ神父の日本潜入には反対でした。それで優秀な彼をフィリッピンに留めてそこの教会の重要な任務に就くように勧めていました。しかし、彼はその提案を断り、弾圧下で苦しんでいる日本の信者たちのために来島したのです。
彼を尋問した新井白石は、キリスト教の教義については否定的でしたが、彼の博識と人間的高貴さには高い評価を与えていました。この友好的な2人の関係を察したオランダ人の通訳は本国に、幕府はキリスト教を解禁するかもしれないと報告しました。これを聞いたローマ教皇庁はシドティ神父を「教皇庁からの使者」という身分から、「教皇代理」の身分に引き上げました。しかしその証書が江戸に届いたのは、シドティ牢獄死の後でした。
彼は聖人に相応しいか?
シドティ神父についての外国語の文書には、「アバーテ」という尊称が当てられているそうです、アバーテというのは修道院長のことです。実際、記録にある彼の日課は、黙想、聖務日課、ミサ、病人訪問、ゆるしの秘跡の執行などで、所持品も聖具が主だったようです。
屋久島に上陸してから、江戸で亡くなるまで6年間はずっと囚人として収監されており、移動も籠の中だったので歩行困難に陥っていたようです。しかし、晩年にお世話になった日本人夫婦に洗礼を授けたこと、しかも、洗礼を受けた2人は、そのことを役人に自白した結果、殉教したこと。そして自分自身は、彼らを励ましつつ獄死したことなどは宣教師の証であり、信仰のゆえに命を捧げた殉教者の証でもあると言えると思います。
彼は、屋久島に降り立つ前に、船長に残した手紙の最後に次のように記しています。
「私が支えとするのは自分の力ではなく、イエス・キリストの全能の恵みと、過去の100年ほどの間にそのみ名を守るために血を流した多くの殉教者の保護なのです。」(マリオ・トルチビア著『ジョバンニ・バッティスタ・シドティ』94ページ)
彼は日本の殉教者の仲間に入ることを強く望んでいたに違いないのです。