鹿児島教区司教 中野裕明
教区の皆さま、お元気でしょうか。今月は聖心の月です。そこで、今回は聖心の信心についてお話します。
先ず、「イエスの聖心」は信心であって教義ではありません。教義はカトリック教会の信ずべき事柄を指します。信心とは信じている対象への個人的な感情です。
信心の基本には思慕の念があります。それは、丁度幼子が大好きなお母さん、お父さんを思慕するように、理屈を超えた感情です。それはイエスさまやマリアさまや他の聖人方へと向かいます。
ところで、「イエスの聖心」を表す絵画では、茨がまきついた心臓が描かれています。
その意味は私たちのために十字架による罪を贖われたイエスの愛を表現しているわけですが、心臓はギリシャ語で「カルディア」と言い、それはその人の心を表しており、広い意味で、イエスの人間的愛、さらには、彼の人柄をも表していると解釈できるようです。
そうすると、「わたしは柔和で謙遜な」イエス(マタイ11・29)のようになりたい、と思慕することも信心業であるとも言えます。換言すれば、信心とは、信仰生活に喜びや熱心さや楽しみ等をもたらすものであると言えます。
さて、私個人は感情的にイエスを思慕することは苦手なので、やはり神学的な観点から「活ける水」とイエスについてお話しします。鹿児島カテドラル・ザビエル教会の一階正面玄関の左側の壁面に「イエスは大声で言われた『渇いている人は誰でも私の所に来て飲みなさい』」(ヨハネ7・37)という言葉が彫り込まれています。
このイエスの招きの言葉は通りがかりの人、洗礼を受けた人、洗礼を受けても教会を遠ざかっている人、新型コロナの感染予防のため教会に来られなかった人など、とにかくすべて人に対して、イエスの熱心な呼びかけであることは確かです。ただ、私たちが、果たして自分自身「渇いている」と自覚しているかが問題であります。
ところで、日本語には「欲求」と「欲望」という似通った言葉があります。違いをあえて言うなら、「欲求」の対象が命に関して必要不可欠な事柄であるのに対して、「欲望」は現実を超える幸福を望むときに用いられています。前者は満たされることがありますが、「後者は制限なし」という事になります。
ヨハネ福音書4章にイエスとサマリアの女の話があります。
それは、イエスがサマリアの女に「水を飲ませて欲しい」と頼まれるところから2人の会話が始まります。会話の途中で、イエスは変なことを言い始めます。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く、しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4・13~14)
すると女は言います、「主よ、渇くことのないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(同上15節)と。
さて、この女は「飲む者は決して渇かない」(欲求)と「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(欲望)を満たすことをイエスに願っています。
イエスは自然界の水の効用を前提にしながら、超自然界の水について言及しています。つまり、この「人の内で泉となり、永遠の命に至る水」とは「ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われた」(ヨハネ7・39)のでした。つまり、ここで話されている事柄は、聖霊による洗礼のことを言っているのです。
最後に、イエス自身の「渇き」について言及します。ヨハネ福音書では十字架上でイエスは、「渇く」と言って息を引き取られた、とあります。但しその前に、すべてのことが今や成し遂げられたのを知、(ヨハネ19・28)と記されています。つまり、イエスはこの世の生涯の終わりに、天の御父から命じられた人類救済の計画が十字架での死によって、成就したことを確認したうえで、「渇く」と言われたわけです。
ご自分の死とそれに続く復活がなければ、聖霊を自分を信じる人たちに与えることができないこと知っていたイエスにとって、死の間際にあっても最終目的に向かうご自分の意志を表現している「渇き」と言えるのではないでしょうか。ある聖書注解者は、それを「自己譲与」と説明しています。