鹿児島教区司教 中野裕明
『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない
教区の皆さま、お元気でしょうか。今回はイエスの次の言葉についてお話しします。
「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が、入るのである。」(マタイ7・21)
ここで言われている「主よ、主よ」と言う人とは、洗礼を受けた人のことを指しています。そうすると、洗礼を受けただけでは、天の国には入れないのだということになります。この意味について少し黙想してみます。
「主よ、主よ」と言って、私たちは神さまにいろんな願い事をします。それは、基本的に神を信頼しているからです。このことは悪いことではありませんが、根本的に自分の善だけを願っていることになりかねません。
人祖アダムとエワの罪(命の与え主である神との縁が断たれている状態)を持つ人間は、イエス・キリストの十字架上での死によってその罪を贖われ、復活の主イエスから送られる聖霊によって神の命を得たのです。この神の命を得ることを「天の国に入る」と言います。
従って、「天におられる父の御心を行う者」とは、厳密に言えば、イエス・キリストの事ですが、このイエス・キリストを信じて、イエスのような生き方をする者だけが「天の国に入る、すなわち救われる」ということになります。
ところで、神を信じ、神を信頼して生きるとはどういう生き方なのでしょうか。
私たちの身体は、常に新陳代謝を繰り返しています。それは2兆個とも言われる細胞が体内で生と死を繰り返している、という意味です。
ところで、私たちが受けた洗礼は1回限りです。洗礼証明書が存在することで、信者の証にはなります。確かにこの世では、1度何かの資格が得られれば、それは生涯有効とみなされますが、この洗礼証明書は、生きておられる神の前では意味を成しません。
人間が生きているということは新陳代謝を繰り返すことであるし、「天におられる私の父の御心を行う」ことが求められているのです。
聖パウロは次のように語ります。
「私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。(中略)私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ書6・6〜8)
ここで、「天におられる私の父の御心」について、イエス自身が弟子たちに教えた祈りを思い出します。それは「主の祈り」です。前半の部分を思い出してください。
「天におられるわたしたちの父よ、(中略)みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」
8月15日は「太平洋戦争終結の日」であり、「聖フランシスコ・ザビエルによる日本へのキリスト教伝来」の日であり、「聖母被昇天の祭日」でもあります。
このように三つの歴史的出来事が一日に集中するのはまれなことです。これらの出来事において、「天の父の御心」が実現した日であることを感謝し、世界の紛争地に1日も早く平和が実現するように祈りましょう。