教区の皆さま、お元気でしょうか。
日本の教会は、9月第1日曜日を「被造物を大切にする世界祈願日」と命名し、「地球規模の環境悪化が進む中、自然を破壊することなく、『私たち皆の家』である地球を大切にし、調和のうちに発展していくことができるよう」祈ることを奨励しています。この意向を実践するために必要な考え方(理論)についてお話しします。
聖書によりますと、自然界と人間の関係性は創世記にあります。
「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1・1)
さらに、「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて、地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべてを支配せよ。』」(同上・28)
つまり神は、自然界のすべてものを造り、それらを治める使命と権限を人間に与えた、と解釈できます。
ところで、人間は自然界と同じ生物なので、自然界と共存せざるを得ず、自然界を完全に支配することはできません。しかし、人間は長い時間をかけて、自然界から学びながら「文化」を発展させてきました。
「文化」は英語でカルチャー(Culture)と言い、ラテン語のクルトゥス(Cultus)に由来しています。このクルトゥスは元来、耕作を意味しており、そこから、生活習慣、教養、恭順という精神性の高揚を表現する言葉にまで発展し、最終的には祭儀という宗教用語に用いられるようになりました。「マリア信心」の信心は、このクルトゥスの和訳です。
一方、人間の理性は、その歴史の課程で科学技術を発明し、いわゆる「文明」を発展させてきました。文明は英語でシヴィライゼーション(Civilization)と言います。要するに人間が集合する都市化であります。それが発展して、国家ができます。そして国家は、土地を支配し、自然界と人間を支配するようになります。従って「文明の発展の基礎にあるのは科学技術である」と言っても過言ではありません。
さて、「科学技術が最高度に発展してきている」と認知されている今日、いまだに統治できていないのがこの自然界です。人間の命を脅かす病原菌や自然災害に対して、国家はしきりに科学技術への信頼を人間に宣伝しています。あたかも人間こそがこの地球上の完全な支配者であるかのように。
教会が今日、全人類に警鐘を鳴らしているのは、「文明の発展を礼賛するあまり、文化を冷笑しがちな世論」であると言えます。
数年前に経験した、新型コロナによるパンデミックや、世界規模の異常気象による自然災害の現出は、天災か人災かの境界線が曖昧になりつつあることを示唆しています。
「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』」(同上・26)。ヴァチカン教理省は、この「我々にかたどり」はイエス・キリストのこと、「我々に似せて」は人間のことと解釈しています。神の像(ImagoDei)は神であり同時に人間であられるイエス・キリストであり、我々人間は、彼に似せて、あるいは、彼に向けて造られた存在(いのち)であることを、肝に銘じてこの月間を過ごしていきたいものです。