2021年の年頭の辞
鹿児島教区司教 中野裕明
教区の皆さま、新年あけましておめでとうございます。昨年は大変お世話になりました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
昨年の2月から始まった新型コロナウイルス禍は現在も終息の兆しが見えないまま、新年になってしまいました。終息の日を期待しながら忍耐強く毎日を健康に留意して過ごしてまいりましょう。
さて、教会の典礼暦では新年はいつも主の降誕節の中にあります。救い主の誕生を祝うこの季節は、特に人間となって私たちの許(もと)に来てくださった神の子イエス・キリストを称える時でもあります。それはちょうど暗闇の中で一条の光を求める人間の在り方を示しています。
天地創造の初めに、神は「光あれ」と言われ光が存在するようになりました。(創世記1・3)それは「地は混沌であって、闇が深淵の面にあった」(同上1・1~2)状態でのことでした。つまり、光が現れる以前に天地は創造され、地は闇に覆われていた、ということになります。
ところで、ヨハネ福音書の冒頭(1章1~18節)ご存じのように荘厳な語り口で始まります。それは、「言(ことば)」についての説明です。この「ことば」の原語はギリシャ語の「ロゴス」です。この「ロゴス」について、デジタル大辞泉は次のように解説しています。
「①ギリシャ語で言葉、理性の意。②古代ギリシャ哲学、後のスコラ学で世界万物を支配する理性・宇宙理性。③言葉を通じて表される理性的活動。④キリスト教で神の言葉の人格化としての神の子イエス・キリスト」と。
ところでヨハネ福音書は、①から③までのようにギリシャ人になじみ深い、この「ロゴス」という単語を共有しながら、大胆に神の子の本性を解き明かしています。すなわち「言(ことば)は神であった」「万物は言(ことば)によって成った」「言(ことば)のうちに命があった」「命は人間を照らす光であった」「光は暗闇の中で輝いている」(以上ヨハネ福音書1・1~5)と。しかし、最後は、「暗闇は光を理解しなかった」(同上1・5)、とあります。
さて、ここで言われている「光」とは勿論、皆さまお気づきと思いますが、それは電灯の光でも、太陽の光でもありません。それはイエス・キリストご自身のことです。そうすると、ここで言われている暗闇も、電灯のない状態でも、夜の暗闇でもないことがわかります。それは、端的に言って、私たちの心の暗闇であると言えるのではないでしょうか。
昨年からの新型コロナウイルス禍のせいで私たちはこれまでの生活習慣の変更を余儀なくされています。それは、ある意味、安楽な生活から自制心が求められる生活を、悪に流されやすい生活から善を選び取る生活を、欺瞞に満ちた生活へ堕ちる誘惑から真理を探究しそれに追従する生き方を、これらは暗闇から光へと回心する好機(チャンス)であると捉えることができます。
全世界の人々が、欺瞞や強欲の精神から解放され、真理であり光である神の子イエス・キリストを褒めたたえ真の平和を希求することができますように。
鹿児島カトリック教区報2021年1月号から転載