門田明氏の鹿児島とキリスト教⑰
9月号で、1551年11月、ザビエルがひとまずインドに帰ることを決め、日本を去ったことを記した。ただインドへの帰途、中国に立ち寄りたい希望を持っていたようである。
河野純徳著「聖フランシスコ・ザビエル全生涯」は次のようにザビエルの心を説明している。
「シナは日本に宗教と文化を伝えた国である。もしもシナ人が聖教を信ずるようになれば、日本人もその影響でたやすくキリスト教の信者になるだろう。しかもシナは平和で、日本人よりも賢く知識欲に富む国民だから、聖教を快く受け入れ、インド人よりも着実に信仰を守るに違いない。」
ザビエル自身手紙(書簡第110)の中で次のように言っている。
「シナは日本の近くにあるたいへん大きな国で、非常に聡明な人たちが住み、学識ある人たちがたくさんいます。私が得た情報では、彼らは学問に励み、学識があればあるほど尊ばれ、高く評価されています。日本の[仏教の]諸宗派はすべてシナから渡来したものです。主なる神がその聖名(みな)をシナにおいて述べ伝えられるようにしてくださると、大いに信頼して出発いたします。」
こうして中国宣教を志したザビエルは早速行動に移る。中国に入るため、本土を目前にする上川島に、1552年8月上陸する。「主なる神のご慈悲と深いおあわれみにより、ディエゴ・ペレイラの船で渡航していた私たちは、商人の船がたくさん停泊しているサンチャンの港に無事到着いたしました。このサンチャンの港はカントン(広東)から30レグア(168キロ)のところにあります。
「ザビエルはサンチャンから広東に渡り宣教を開始する心積もりであったようである。しかし11月に入り熱病にかかる。高熱が続き死期が迫る。こうしてイエズスの聖名を呼びつつ12月3日夜明け前、帰天したのであった。享年46歳であった。(玉里教会信徒・ザビエル上陸顕彰会会長)
鹿児島カトリック教区報2007年12月号から転載