門田明氏の鹿児島とキリスト教⑳
1708年8月29日、一隻の大きな外国船が、九州屋久島の南海岸湯泊沖に停泊した。そして一人の大柄な外国人が現在の下屋久村唐の浦付近の海岸に上陸した。この男は髪が黒く、和服を身にまとい腰に刀を帯びていた。日本人を装ったつもりであったのだろう。これがシドッチ神父の日本到着の姿であった。
シドッチは、1667年イタリア南部シチリア島のパレルモ市に生まれた。信仰心厚い家庭に育ち、青年期、イエズス会に入った。司祭になって間もなく、教皇クレメンス十一世から、日本宣教の命を受け、故郷を船出し困難な船旅の後、マニラに到着した。
ここは3,000人ほどの日本人集落があり、そこで日本語と日本の生活習慣を習い覚え、和服や日本刀や日本通貨を調達して万全の備えを固め、日本に向かった。しかし、危険な航海で、彼の船も暴風に遭い、かろうじて沈没をまぬがれ屋久島にたどり着いたのである。
密入国者シドッチのその後は厳しいものであった。薩摩の領主島津候は彼の身柄を長崎奉行所に引き渡し、取り調べが開始されたが、シドッチは江戸に送られることを強く望み、取り調べに応えない。
結局小さな篭に押し込まれ400里の道を運ばれ、江戸に着いたときは足は萎え、立つこともできない体になっていた。江戸ではキリシタン屋敷に幽閉され、新井白石の取り調べを受けた。この白石との出会いは、日本文化史の上で、極めて重要なものになったと思う。
当時の日本最高の学者がヨーロッパについて、またキリスト教について、多くの偏見を交えながらも、知識を持つことになったのである。それが著述『西洋紀聞』として後世に残されたことは、日欧交流史の出発点に輝く宝といっても過言ではあるまい。
キリシタン屋敷幽閉中、シドッチは下働きの夫婦に洗礼を授けたが、これが明るみに出て牢に入れられた。この牢生活が彼の最後の生きる力を奪い去った。47歳の若い悲しい最期であった。(玉里教会信徒・ザビエル上陸顕彰会会長)
鹿児島カトリック教区報2008年4月号から転載