教区の皆さま、お元気でしょうか。
今年の復活祭は遅いので、このメッセージを受け取る時はまだ四旬節中になります。従って、復活のご挨拶は後程にして、今回はイエスの復活を自分の事として理解できるようにお話ししたいと思います。
まず、もし現代、イエスの復活が死者から蘇ったニュース記事として報道されるとしたら、全世界のビッグュースになるでしょうし「それはフェイクだ」「事実誤認だ」「印象操作だ」「陰謀論だ」などとマスコミ界で大騒ぎになると思います。
イエスの復活の出来事が報告されているのは、4つの福音書においてのみです。4つの報告は、画一的に統一されたものではなく、細かな描写で違いがあります。例えば復活の朝、イエスが埋葬された墓に行ったのは女性たちですが、その人物名で共通なのはマグダラのマリアだけで、あとの固有名詞は様々で、正確な人数も分かりません。つまり、イエスの復活は歴史的事実ですが、その報道は、個人的な体験の報告のかたちをとっていると言えます。
これらの婦人たちは、イエスの空の墓での出来事を「墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。(中略)婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24・9〜11)とあります。
このエピソードで、三つのことを学べます。
①イエスの復活の証人に選ばれたのは女性であったということです。当時の慣習として、女性と奴隷は、裁判などの場面では証人として承認されていませんでした。しかし神様は、そのような身分の人たちを復活の証人になさいました。
②復活の証人は、生前のイエスと面識があり、しかも深いお付き合いをしていた人たちでした。
③婦人たちの報告を聞いても、彼らの話をにわかに信じない使徒たち(男性)がいたという事実です。このことは男性である我が身に当てはまることである一方、信じるには回心が必要であるとともに、時間をかけて、つまり経験を積む中で納得していく性質のものであると言えます。実際、受洗後数年経過してから「イエスの復活が信じられない」と申し出る方もいます。
一方、復活したイエスは次のメッセージを発しています。
マグダラのマリアに向かってイエスは、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(ヨハネ20・17)。
このメッセージから2つのことを学べます。
①生前のイエスは、弟子たちに向かって、「あなたたち」と呼んでいました。しかし今回、イエスは弟子たちを「わたしの兄弟」と呼びます。聖書の世界では「兄弟」と言うと、血縁関係から同胞や他民族のことまでを含む意味で使われているそうです。つまりアブラハムの子孫としての複数の民族を兄弟として呼んでいるようです。
ただ、血縁的兄弟関係は、カインとアベルや放蕩息子のたとえ話にあるような兄と弟の関係では悲劇が生まれます。さらに、イスラエルとイスラームも異母兄弟です。
従って、このような争いに巻き込まれないためには、「復活したイエスと兄弟の間柄になるということは、神の似姿として創造された人間が神のかたどり(神の像)(創世記1・26節参照)に変容させられる」というふうに理解する必要があります。
②さらに、イエスと同じ父、同じ神につながることは、ユダヤ民族を超えていくことをも意味しています。聖パウロは次のように言っています。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダや人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテアの信徒への手紙3・26〜28)。
結論として、イエスの死と復活にあずかるとは、「キリストを着る」者になるという事です。つまり、それは原罪や自罪の結果である分断や差別を乗り越えて平和(和解)をこの世にもたらす者となれるよう努力することでもあります。
主イエスの復活のめぐみが皆さんと共にありますように。