「なるほど、なるほど、ああ、そうですか。」
島田喜蔵神父様は、どんな質問に対しても、どんなぶしつけな言い方に対しても決して怒ったりしないで、頷きながら最後まで聞かれたという。聞き終わると、「なるほど、立派なお考えです。…今度はわたしの意見を聞いてください」と言ってゆっくり解かれるのが常で、「私の説を破りたいと思われるのなら、これこれの一句を破りなさい。ここが崩れると私の論説は根底からひっくりかえってしまいます。お帰りになったらよくお考えください」とヒントを与えて帰ってもらっていたという(浜脇教会の牧者たち第1巻 下口勲著253頁)。
この話は、哲学時代の自分を思い起こさせた。そして、相手に入り込む隙を与えないほどに理路整然と論証される神父様をまぶしく感じた。当時は、試験の答案はありったけの知識を動員してレポート形式でしかもラテン語で書くものだった。
「郡山君の思想は荒っぽい。」答案を返しながら評された司祭の言葉を今も忘れない。哲学生として「あー言えば、こー言う」ことに長けていると内心自負していた私には不満の残る批評だった。
しかし、この評価は司祭になって今に至るまで、説教を準備するときの大事な指針の一つとなっている。カギとなる言葉が見つかったらその言葉を巡って話を組み立てる。聞く人々に共感してもらえるか、独りよがりの視点に立っていないか、単なる嫌味や皮肉を言っているだけではないのか、常識的な教訓に終わっていないか、信仰を刺激するチャレンジがあるか等々。
「思想が荒っぽい。」今も時折、笑うと童顔のあの若かりし頃の司祭の顔が蘇る。
話が横道にそれたが、島田神父様の宣教は一貫して「座談形式」で、説教以外、大勢に説くことはなさらなかったらしい(同上255頁)。悔しい思いをして帰っていった人々は、何度も通って反論を試みているうちにほとんど皆、洗礼を受けたのだという。
尊敬の眼で師を仰ぐかつての論客たちと穏やかにほほ笑む神父様。そういう人々で満たされていく教会。ザビエル教会草創期の高揚した雰囲気につい我を忘れた。