カナンの女とイエスさまの問答(マタイ15:21~)
旧司教館への引っ越し作業が始まったばかりの8月8日(水)はドミニコ会の創立者聖ドミニコの記念日だった。ミサの福音はマタイ15章21節から始まるカナンの女とイエスさまの問答の箇所。
「わたしを憐れんでください」と懇願する彼女を、子犬呼ばわりするイエス様の冷たい言葉にもめげずに、「子犬も主人の食卓から落ちるパン屑は頂くのです」と健気に答える彼女に思わず言われた。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」
信仰そのものは恵みなので「立派そのもの」でも、人手に渡ると質の違いが生じる。
その前にちょっと考えたいのは、この女性は洗礼を受けたわけではないのに、「あなたの信仰は立派だ」と、まるで信者扱い。悪霊に苦しめられている娘を何とか楽にしてあげたいとの一念から「良く分からないがこのお方にかけてみよう」と思ったに違いない。
信仰の始まりの時は?
このエピソードは、信仰は洗礼によって始まるのではなく、またイエス様についてどういうお方なのかすっかり分かったことで始まるのでもなく、信仰は、むしろイエス様に対する尊敬と畏敬の念に始まると言えることを教えているように思われる。
そんな風に思うと、ミサで唱える信仰宣言に求められているのは、確かに信仰そのものではあるが、イエス様に対する尊敬と畏敬の念の深さこそが求められているということにならないか。
”彼女のめげない一途さ”をイエスさまは讃えた
実際、イエスさまが讃えたのは、彼女のめげない一途さであって、信仰宣言ではなかったことを心に留めたいと思う。
司祭や信者の人間的弱さに傷ついて教会を離れる人も少なくない。そうでなくても、顔を曇らせ批判したくなることは多いと思う。
そんなとき、このエピソードは、私たちの指針になるように思う。
8月8日の福音朗読箇所
(マタイ25:21~28)
〔そのとき、イエスは〕15・21ティルスとシドンの地方に行かれた。22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。