「見たこともないのに愛し、見なくても信じる」
「キリストを見たこともないのに愛し、今見なくても信じている」罪と死に勝利した主イエス・キリストの復活、おめでとうございます。
教区の皆さま、お元気でしょうか?
今年の復活祭は異常な状況の中で祝われています。世界中が新型コロナウイルスの猛威に晒されている中での復活祭です。この惨禍がいつどのような形で終息するかだれも予測できない状況の中ですが、とにかく、復活祭は5月末日まで続きますから、わたしたちの信仰を見直し、全能の神への信仰を固めていきたいと思います。
コロナ感染への恐怖の中で、それを克服できるような信仰の捉え方を一緒に考えてみましょう。
さて、標題の文言は聖ペトロの手紙の一節です。全文を紹介します。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに、愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが、信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(Ⅰペトロの手紙1・8~9)。
ペトロの手紙は、新信者に宛てられたものです。キリストから首位権を付与された初代のローマ教皇である聖ペトロの新信者に向けた心のこもった手紙です。信者の皆さんはできれば手紙全文を読んでいただきたいと思っています。
わたしが、この文言で注目したいのは、「キリストを見たこともないのに愛する」という言葉と「見ていないのに信じる」という言葉です。人間は普通見たこともないものを愛せないし、信じません。それは、自分の損得に関係ない事柄を極力遠ざける傾向があるからです。換言すれば「無関心」という常套手段で保身に全力を尽くすのです。教皇フランシスコが現代人の病癖としてたびたび警告している事柄でもあります。
一方、今日現在、新型コロナウイルス感染拡大防止のために献身的に働いている方々は、ウイルスという目に見えない敵と戦っています。自分自身も感染する危険に冒されながらも他者のために働くのです。このような人々は、苦しむ人の中にキリストを見ているのではないかと思います。
見えないキリストを愛し信じるのか、それとも、見えないウイルスを恐れ、感染者を忌み嫌い遠ざけるのか、今回の惨禍はわたしたちに問いかけています。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ人への手紙11・1)
わたしたちは、全能の神が十字架にかけられて死んだイエスを復活させられたことを信じています。また、十字架の傍らでイエスによって人類の母に任じられた、聖母マリアの執り成しを信じています。
聖母の月である5月、私たちが、感染に正しく対処しながら、この惨禍の終息のために愛のわざにまい進できるよう祈りましょう。