キリストの福音上陸の地・鹿児島

司教の手紙 ㉓ 救い主の到来に備える

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教区の皆さま、お元気でしょうか?

今回はクリスマスを迎える準備として、洗礼者ヨハネのメッセージをこころに留めたいと思います。

先駆者ヨハネのメッセージを心に留めたい

彼は先駆者ヨハネとも言われています。「先駆者」とは、イエスの前を行く人、イエスの誕生を準備する人のことです。では、イエスの誕生を準備した人は彼だけだったでしょうか?

マタイ福音書の冒頭には、イエス・キリストの系図が記されています。系図はイエスの出自を示したもので、その最初の人物はアブラハムになっています。ところで、イエスの系図といえば、ルカ福音書にもあります。(ルカ3・23)そこでは、イエスから出発して最終は、「アダム、そして神に至る」(ルカ3・23)とあります。

この二つの系図の表記の仕方の違いは、マタイの方は旧約聖書を熟知している離散したユダヤ人向けであり、ルカの方は、ユダヤ人の歴史を知らない、ギリシャ語を話す人々に向けて編纂されたからだと言えます。いずれにせよ、これらの系図の意図するところは、イエスが、人間の歴史に深くかかわっているということと、その誕生は、ある日突然、無計画に天から降ってきたのではないということにあります。

換言すれば、人間の歴史の中に神が介入してきたと主張していると考えられるし、さらに、人類が、このイエスの出自にもっと注目してほしいという願望もうかがえます。つまり「イエスは、どこから来たのか?」そして「誰であるのか?」との問いかけです。

律法(十戎)に立ち返りイエスを迎える

さて、先駆者ヨハネの話に戻りましょう。彼は、イエスを迎えるためには律法に立ち返り、改心することが必要であると説きます。教会は、クリスマス前に待降節を設けて改心と犠牲を信者に求めるのは、先駆者ヨハネのメッセージに忠実であろうとするからです。

彼のメッセージの核心は、律法に忠実であることです。そして、律法の核をなすものは「神の十戒」です。「十戒」は「掟」とふつう訳されますが、原語では、デカローグ、つまりデカ(十)ローグ(ことば)という意味です。神はイスラエルの民に向かって話された、十箇条の言葉という意味です。旧約聖書の中で、「十戒」は出エジプト記20章、申命記5章に収録されていますのでお読みください。神様の心が伝わってきます。

私たちはみな、子供のころ親、先生、大人たちからいろんな事柄を諭されて育ってきたと思います。今の子供たちもそうあるべきだと思います。

十戒は神への務めと人間間の務めがある

「十戒」の4番目に「父母を敬え」というのがあります。1~3戒は神に対するに人間の務めですが、道徳的務めの5~10戒の間にこの4戒があります。これは、人間の神への務めと人間間の務めの橋渡しというか、ちょうつがいのような立場のような気がします。

つまり、「父母を敬え」という務めは、神側からすると、「父母は神の代理者だから、子供は父母を敬うべきである」とし、子供の側からすると「父母を通して、神を敬うことを教わることができる」という風に捉えることができるのではないでしょうか。

「神の十戒」の各戒について家族間で話し合ってみるのも待降節の有意義な過ごし方の一つであると思います。よいクリスマスをお迎えください。

鹿児島カトリック教区報2020年12月号から

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