キリストの福音上陸の地・鹿児島

司教の手紙 ㊲ 見よ、世の罪を取り除く神の小羊を

投稿日:2022年4月1日 更新日:

復活祭の意味について

教区の皆さま、主イエスのご復活おめでとうございます。

今年の復活祭は、新型コロナパンデミックに続き、ロシアによるウクライナ侵攻と、世界の平和と秩序を揺るがす地球規模の大事件が続く中でのお祝いとなりました。このような歴史的な変容の中で、主イエスの復活を黙想し、その意味を明かしていくことはとても意義深いことであります。今回はこの復活祭の意味についてお話ししたいと思います。

西欧語では、復活祭のことを「パスカ」と言います。これは「主の過越」という意味です。イタリア語で、ご復活おめでとうは、「ボンナ パスカ」と言います。この言葉の出典は出エジプト記12章にあります。

「主はエジプトの地で、モーセとアロンに言われた。(中略)イスラエルの全会衆に告げなさい、全家族ごとに小羊一匹を用意し、(中略)夕暮れに皆集まってそれを屠る。そしてその血を取って小羊を食べる家の入口の二本の柱と鴨居に塗る。その夜のうちに肉を火で焼き、種なしパンに苦菜を添えて食べる。(中略)それを食べるときは腰の帯を締め、足にサンダルを履き、手に杖をもって、急いで食べなさい。これが主の過ぎ越しである。その夜、私はエジプトの地を行き巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を撃ち、また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家の血は、あなたがたのしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたたちのいる所を過ぎ越す。こうして、エジプトの地をわたしが撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」(出エジプト記12・1~13)

ところで、表題の文言、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1・29)は洗礼者ヨハネが、自分の方へ近づいてくるイエスに向かって発した言葉です。復活なさったイエスの本性を言い当てた表現の一つです。

主の過ぎ越しの時に屠られた小羊

まず「小羊」ですが、これは先ほど引用した、主の過ぎ越しの時に屠られた小羊を想起させます。しかも、鴨居に塗られた血は十字架上で流されたイエスの血にも相当します。「神の小羊」のイメージですが、それは、イザヤ書にある主の僕の苦難に誘導されます。すなわち、「わたしたちは皆、羊の群れのようにさまよい、それぞれ自らの道に向かって行った。そのわたしたちすべての過ちを主は彼に負わせられた。彼は虐げられ、苦しめられたが、口を開かなかった。屠り場に引かれていく小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように口を開かなかった。」(イザヤ書53・6~7)

もちろん、イエスの受難と死は、一週間続く過越祭の最中に起こりました。

「イエスは言われた。『都のあの人のところへ行ってこう言いなさい、先生が、“わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする”と言っています。弟子たちは命じられたとおりにして、過越の準備をした。』」(マタイ26・17~19)

「世の罪を取り除く神の小羊」とは

次に、「世の罪を取り除く神の小羊」について考察します。ヨハネの黙示録に次のような箇所があります。

玉座におられる方がその右の手に巻物を持っておられた。ところが、この巻物を開くに相応しい者がだれもいませんでした。それで皆悲しみました。ところが、玉座を囲む者たちの間に、「小羊が屠られたような姿で立っていました」(ヨハネの黙示録5・1~6)。

小羊は進み出て、玉座におられる方の右の手から巻物を受け取りました。周りの者たちは小羊の前にひれ伏し、かれらは新しい歌を歌い始めます。「あなたは巻物を受け取り、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは屠られて、その血により、神のために、あらゆる部族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から人々を贖い、彼らをわたしたちの神に仕える、御国の民、また祭司となさったからです。かれらは地上を支配するでしょう。」

さらに、天使は大声で、こう言いました、「屠られた小羊こそ、力、富み、知恵、権威、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」さらに続けて、「玉座に座っておられる方と小羊に、賛美、誉れ、栄光、そして力が、世々限りなくありますように」(同上5・9~13)

世の罪とは?

私たちが現在暮らしている社会は、まぎれもなく、地球規模でモノ、カネ、ヒト、情報が飛び交っている、いわゆるグローバル社会と言われるものです。このような社会では、個人的に発信される善行や悪行も情報として容易に世界中に拡散し伝播します。

勿論、善なる事柄だけが、伝播されればいいのですが、残念ながら悪の伝播の方がはるかに強烈なように思います。もし強欲で権力や財力を持っている少数の人たちがこの世を支配するとしたら、大衆は奴隷状態に置かれてしまうでしょう。それはまさにかつてのエジプトで、奴隷の状態に置かれていたイスラエルの民の状況を想起させます。

イスラエルの民は、主の「主の過越」によって自由を得ましたが、神の小羊であるイエスは、私たちを罪とその死から、救い出して、永遠の生命を下さいます。これは個人の事情というよりも、民全体のつまり私たち全体に関する事柄なのです。世界規模の疫病、国家間の戦争、それらは皆「世の罪」と言えるでしょう。

鹿児島カトリック教区報2022年4月号から転載

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