キリストの福音上陸の地・鹿児島

司教の手紙 53 ミサのカテケージス ②

投稿日:2023年8月29日 更新日:

鹿児島教区司教 中野裕明

「ミサにあずかる」ことの意味

教区の皆さま、お元気でしょうか。

今回は「ミサにあずかる」ことの意味についてお話します。コリントの信徒への手紙の中で、パウロは次のように書いています。

「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」(Ⅰコリント10・16~17)

イエスによる最後の晩餐でのミサの原型の制定のことを聖パウロは信徒に思い出させ、それに新しい解釈を加えていま。つまり、最後の晩餐での制定は、イエスの記憶を弟子たちが後世に残すために定められたのではなく、キリストと一体化することを指しています。換言すれば、キリストに同化する、という事です。「あずかる」とはそういう意味です。

別の箇所で、聖パウロは次のように言っています。

「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体になる、ということを知らないのですか。(中略)しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです」(Ⅰコリント6・15~17)。

ここで、コリントの町の様子をお話します。

この町はアドリア海とエーゲ海の二つの海に面した商業都市であり、多種多様な人々が行き交う自由の空気が支配する、文化的中心地でした。住民と言えば、徹底した歓楽主義者、根っからの唯物論者で精神生活に対する理解と関心は皆無といった評判の町でした。

そんな環境の中で生きているキリストの教会の信徒たちに宛てられたのが先ほどの聖パウロの手紙の内容です。綺麗ごとではなく、道徳的に乱れている感性の中にいる人々に対して、いかにしてキリストのもたらすメッセージが福音となるように理解してもらえるか努力しているパウロには頭が下がります。

ところで、このパウロが用いる「あずかる」の意味を、彼の体験と、イエスの言葉の中で深めていきたいと思います。

パウロは自分のキリスト教への回心で出来事を、使徒言行録の中で、3回も記しています。

それによると、かつてユダヤ教の教師であったサウロがキリスト教徒をユダヤ教に引き戻す活動をしていたところ、復活したキリストがそれをとどめたのです。

「『サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである』」(使徒言行録9・4~5)。

つまり、サウロにすれば、自分が迫害をしている対象はキリスト信者であるはずなのに、イエスは自分を迫害していると言うわけです。

この時点で、サウロはイエスと彼を救い主と信じてその道を歩いている人たちは一体であることを悟ったのではないでしょうか。そして、キリストに帰依しました。

他方、イエスの話にも同じような文脈があります。それは最後の審判の場面です。

「はっきり言っておく、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)。

パウロの言う「あずかる」は原語ではコイノニアというギリシャ語が使われています。それは交わりと一致というふたつの言葉の意味を合わせ持つ言葉です。

ミサの中でキリストの体であるご聖体を頂く私たちは、同時にキリストの体にあずかっているという事実を実感すべきです。そうすれば、肉の体(肉の思い)から霊の体(霊の思い)へと変容させられ、教会共同体全体が聖霊に満たされるに違いありません。

最後に蛇足になりますが、毎週ご聖体を届けていた、目の不中な老婦人のお話をします。

長屋の一番奥の居室にいた彼女は、ご聖体拝領が終わると、いつも私と腕を組んで、5メートルぐらい先の玄関まで歩きます。そして言いました。「あー新婚旅行みたいだ」と。

イエス様と一致した最高の喜びの表現でした。

鹿児島カトリック教区報2023年9月号から転載

  • B!

お勧めの記事

1

鹿児島教区司教 中野裕明 「対話を通しての宣教」について 教区の皆さま、お元気でしょうか。 今回は「世界宣教の日」(10月20日)に因み、「対話を通しての宣教」についてお話しします。 さて、カトリック …

2

鹿児島教区司教 中野裕明 「被造物を大切にする世界祈願日 すべてのいのちを守るための月間」について 教区の皆さま、お元気ですか。今回は日本の司教団が制定している「被造物を大切にする世界祈願日 すべての …

3

8月15日は「太平洋戦争終結の日」であり、「聖フランシスコ・ザビエルによる日本へのキリスト教伝来」の日であり、「聖母被昇天の祭日」でもあります。これらの出来事において、「天の父の御心」が実現した日であることを感謝し、世界の紛争地に1日も早く平和が実現するように祈りましょう。

4

教皇フランシスコは、多くのキリスト信者の心を覆っていた「正義の神」、「裁く神」のイメージが「いつくしみ深い神」というイメージに転換することを強く望んでおられます。ミサの式文の中では祈りの冒頭に「いつくしみ深い神」が多用されていることに気づくのではないでしょうか。

5

6月は「イエスの聖心の月」です。イエスの心臓が茨の冠で拘束されながらも愛の炎を燃え上がらせているご絵を思い浮かべてください。このような熱い愛を、洗礼の恵みを私たちは受けているのです。