鹿児島教区司教 中野裕明
絆を求めて
教区の皆さま、お元気でしょうか。
今回からわたしは、キリスト信者と神との正常な関係についてお話ししたいと思います。
イエスさまの有名なたとえ話に「ぶどうの木」のたとえがあります。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(ヨハネ15・1〜2)
この短い文章の中に、父である神と子である神とわたしたちの絆が示唆されています。
すなわち「3者は繋がっている」ということです。
勿論、ぶどうの幹につながっている枝とは、洗礼を受けたキリスト信者であることは確かです。もう少し厳密に表現するなら、「わたしたち信者は、キリストだけではなく、天の父とも繋がっている」ということです。
このたとえ話(同上1〜17)の内容は豊かなので、熟読し、黙想する必要がありますが、その核心は次の文章にあります。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15・9〜10)
ここで注目すべきは、「父の掟」と「わたし(イエス)の掟」が並列されていることです。これは旧約と新約の違いで、前者は「モーセの十戒」(出エジプト記20・1〜17)で、後者は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15・12)を指しています。
この並列されている「掟」には優劣はありません。実際イエスは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5・17)と言っています。
この場合、「律法と預言者」は旧約を象徴していると言えるし、「父の掟」のことを指していると理解できます。
初代教会の頃、「旧約の神は裁く神で、新約の神は愛の神である」と説く人がいましたが、教会はこれを異端として退けました。しかし、実際、現在でもそのように考えている人が多いことも事実です。
大事なことは、父である神と子である神(イエス)とわたしたち信者は、それぞれの神の「掟」を遵守する限りにおいて、繋がれている、という点です。その掟とは「愛」にほかなりません。
児童養護施設「愛の聖母園」では毎年クリスマス会を催します。これは、施設で暮らしている人たち全員で、1年間支援して下さった人たちへの感謝を表すための催しです。
ところで、このクリスマス会の昨年のテーマは、「絆を求めて」でした。これは、クリスマス実行委員会の自発的な発案だそうです。
施設の利用者と先生方という血縁関係のない方々がともに、「絆を求めて」催す神の子の誕生を祝う「クリスマス会」は、神と人間がイエスを通して繋がれたという真実を見事に表現していると思います。それは「神の愛が見える姿でわたしたちの前に現れた」ことを見事に表現していたと思います。施設長以外、1人のキリスト信者もいませんが、これまでこの施設を育んで来られたシスター方や神父さん方に感謝いたします。
わたしたちはこの1年、人間の思い上がりを捨て、神が統括なさる秩序を謙虚に受け入れていきたいと思います。