門田明氏の鹿児島とキリスト教⑯
6月号で、都に上ったザビエルが宣教の実りをあげることができず、失望して山口に帰ってきたことを話した。1551年4月末のことであった。
この京都行きで、ザビエルは日本では形式を整えることが非常に大切だということを学んだようである。
山口に帰るとすぐ領主に面会するが、今度は衣服を整え総督と司教の親書と進物を持参し奉呈する。領主は宣教を許可し、手厚く保護する。すぐに宣教活動を始め、2か月で500人に洗礼を授けたという。
ザビエル自身、書簡の中でこう言っている。
「ふたたび山口に戻り、持って来たインド総督と司教の親書と、親善のしるしとして持参した贈り物を、山口侯に捧げました。この領主は贈り物や親書を受けてたいそう喜ばれました。領主は私たちに返礼としてたくさんの物を差し出し、金や銀をいっぱい下賜されようとしましたけれど、私たちは何も受け取ろうとしませんでした。それで、もし領主が私たちに何か贈り物をしたいとお思いならば、領内で神の教えを説教する許可、信者になりたいと望む者たちが信者になる許可を与えていただくこと以外に何も望まないと申しあげました。領主は大きな愛情を持って私たちにこの許可を与えてくださり、領内で神の教えを説くことは領主の喜びとするところであり、信者になりたいと望む者には信者になる許可を与えると書き、領主の名を記して街頭に布令を出すことを命じられました。」
ザビエルが山口逗留中、豊後(大分)の領主大内義隆から「一隻のポルトガル船が豊後の港に着き、話したいことがあるので、府内に来てほしい」という手紙が届く。
ザビエルは「豊後の領主が信者になることを望んでいるかどうかを見極めるため、またポルトガル人に会うために9月中旬豊後へ」行く。
領主はザビエルを大いに歓迎し、ザビエルはポルトガル人たちとも話を交わした。この間、ザビエルは日本での態勢を強化する必要を感じ、適当な措置を講ずるためインドに帰ることにした。こうして11月、日本を去ったのである。(玉里教会信徒・ザビエル上陸顕彰会会長)
鹿児島カトリック教区報2007年9月号から転載