キリストの福音上陸の地・鹿児島

ローマを訪れた鹿児島人ベルナルド

投稿日:2007年8月1日 更新日:

門田明氏の鹿児島とキリスト教⑮

鹿児島市のザビエル公園のベルナルド像 (右は聖ザビエル、左はヤジロウ)

先号では、ザビエルがヨーロッパに送った鹿児島人ベルナルドが1553年リスボンに到着したことを書いた。

このベルナルドについては、『キリシタン研究第五輯』(吉川弘文館・昭和34年)掲載の論文、Pasquale M.D.Elia S.J.「ローマを訪れた最初の日本人ベルナルド」(1555年)(本田善一郎訳)が詳しく取り上げているので、その要点を紹介する。

ザビエルは1549年8月15日鹿児島に上陸し、「日ならずして洗礼を施している。・・・その領内で最初に、さもなければ確かに2番目に洗礼を受けたのは、鹿児島のかなり貧しい青年であった。ザビエルはこの青年にベルナルドという霊名をおくった。」彼の正確な年齢、日本名はわからない。「ベルナルドはザビエルに接するうち、この人こそ自分の師として恥ずかしくない人だと思うようになった。それからは片時も聖人の側を離れず」、ヨーロッパに旅立つ日までその生活が続いた。(「」は上記論文引用)

リスボンに到着したベルナルドはイエズス会に心を惹かれるようになり、1554年2月頃入会を許可されている。そして、かねてからのローマ行きの希望がかなえられることになり、1554年7月17日逗留していたコインブラを発ち、正月初旬ローマに着いた。そして、教皇パウロ四世に謁見できたという。

しかし、この長い旅は彼に大きな負担となった。途中で体調を崩し、1557年初頭病勢が募り、3月3日灰の水曜日の少し前、多分二月中と思われるが、コインブラで永眠した。

彼の最期を看取った神父はこう言っている。「彼は聖人のように死んだのです。彼が我々と共に生活していた時、たえず我々の模範であったように、その死に臨んでも、また我々を深く感動させたのでした。」ベルナルドの霊性の深さを物語る言葉であり、数百年の歳月を経たいまも、若くして逝った彼の死を深く惜しむものである。(玉里教会信徒・ザビエル上陸顕彰会会長)

鹿児島カトリック教区報2007年8月号から転載

  • B!

お勧めの記事

1

6月は「イエスの聖心の月」です。イエスの心臓が茨の冠で拘束されながらも愛の炎を燃え上がらせているご絵を思い浮かべてください。このような熱い愛を、洗礼の恵みを私たちは受けているのです。

2

5月は聖母月。19日に聖霊降臨の祭日を祝います。復活節はこの日をもって終わります。教会の誕生日である聖霊降臨の日、新信者は、父である神、子である神、神の母である聖母を頂く家族の一員であることを喜んで自覚するのです。

3

私たち人間と神の子イエスとの関係は、「洗礼を受けることによって、人間となられた神であるイエス・キリストに固く結ばれる」ことだということです。

4

約3年間の地上での宣教活動で発信されたイエスのメッセージの主旨はただ一つ、それは「あなたたちが信じ礼拝している神は、わたしの父であり、また、あなたたちのお父さんである」ということです。

5

人祖アダムの罪(原罪)の傷を負った人類は、あるいは、洗礼によって、原罪から解放された信者であっても、自分の責任で犯す神の十戒への違反は神から赦される必要があります。そうしないと、その人は一生、自己矛盾の中で苦しむことになります。