門田明氏の鹿児島とキリスト教⑭
1551年11月15日、ザビエルは日本を去った。
4月末、京から山口に着きしばらくそこにいたが、9月中旬、豊後領主大友義鎮の招きで府内に行き、ポルトガル船の船長ドゥアルテ・デ・ガマの歓迎を受けた。しかしマラッカからの便りもなく、インドの留守中の状況も心配であり、ひとまずゴアに帰ることにした。
ガマの船に乗り、豊後沖の浜を出帆、その後船を乗り継ぎ、翌年2月ゴアに帰り着いた。このとき、2人の日本人、山口のマテオと鹿児島のベルナルドが同行した。ヨーロッパに留学させるつもりであった。
1552年4月8日付け、ポルトガルのシモン・ロドリゲス神父宛の手紙に次のように紹介している。
「そちらへマテオとベルナルドが行きます。彼らは生粋の日本人で、ポルトガルやローマへ行ってキリスト教世界を見て帰国し、見聞したことを日本人に証言したいと願って、私とともに日本からインドへ渡航しました。親愛なる兄弟シモン神父よ、主なる神への愛と奉仕のために、彼らをよく世話して、満足して帰るようにしていただきたいとお願いいたします。なぜなら、彼ら自身の口から証言を聞けば、日本人はきっと私たちを大いに信用することになるでしょう。」
残念なことにマテオはゴアの酷暑に耐え切れずすぐに他界してしまった。残されたベルナルド一人が、1553年9月リスボンに到着した。しかし、苦労を重ねた長旅のあとで疲れ果てていたようである。
1554年5月8日にリスボンの聖アントニオ学院からある人が出した手紙に、「ベルナルドは自分を鍛えようと決心して日本から来た立派な人です。しかし長い航海だったので、弱っていて元気がありません。それでも元気になれば、どんなにも勉強できるのだから、まず体をつくることだと励ましてやりました」とある。
次回はベルナルドについてもう少し詳しく話したい。(玉里教会信徒・ザビエル上陸顕彰会会長)
鹿児島カトリック教区報2007年7月号から転載