門田明氏の鹿児島とキリスト教⑨
先号では、帆船で日本へ向かうザビエルが遭遇した様々の危険について語った。しかし幸いにも、この困難を通り抜け、ザビエルは無事鹿児島に上陸する。
「風は日本へ進む方向に吹いていました。こうして船長や乗務員の意に反して、日本への航路をたどらざるをえなくなりました。悪魔もその手下も、私たちの渡航を妨げることはできませんでした。こうして神は私たちがあこがれていたこの地にお導き下さり、1549年8月、聖母の祝日(15日)に到着したのです。日本の他の港に寄ることができず、聖信のパウロの郷里である鹿児島にやって来ました。ここで私たちは彼の親戚や親戚でない人たちすべてより、心からの歓迎を受けました。」(ザビエル書簡)
風まかせ、潮まかせの帆船時代の航海である。ザビエル日本渡来は、まさに神の御心によるものであったとしか言えないように思う。
鹿児島でのザビエルについては、小平卓保『鹿児島に来たザビエル』(春苑堂出版・1998)、山田尚二『キリスト教伝来と鹿児島』を参照する。また、随時、河野純徳『聖フランシスコ・ザビエル全生涯』の記述を紹介してゆきたい。
「ザビエルが渡航して来たころの鹿児島の町は、現在の市街地東部、滑川通以北、南州公園から東の多賀山公園を結ぶ丘陵にかこまれた狭い地域で、稲荷川河口の戸柱港を起点に、一キロの半円の中に入る城下町だった。」(聖フランシスコ・ザビエル全生涯)
ザビエルに同行して鹿児島に来たのは、コスメ・デ・トーレス神父、フェルナンデス修道士、中国人の従僕マヌエル、インドのマラバル人従僕アマドル、一方ヤジロウはザビエルの通訳も務めたジョアンとアントニオを同行させていた。こうして一行は鹿児島、つまり日本に、上陸したのである。(玉里教会信徒・ザビエル上陸顕彰会会長)
鹿児島カトリック教区報2007年1月号から転載