そういえば、日本の教会の中でもシドッチ神父はあまり知られていないのではないか。そこで、少 し思い出してみよう。わたしはキリシタン史の専門家ではもちろんないが、シドッチ神父の上陸地が鹿児島の屋久島であり、現地では毎年、町主催の「シドッチ 祭」があって、そこで講演を頼まれたこともあり、シドッチ神父来日の真相を知りたいと調べてみたことがある。以下はその一端。
たった一人の教区司祭宣教師
ジョバンニ・バッチスタ・シドッチは1668年シチリアのパレルモ生まれ、若くしてローマに出て神学校に学び、ローマ教区司祭に叙階された。そして 1703年、35歳のとき、時の教皇クレメンス11世より日本に行くよう命じられた。赤穂浪士の討ち入りのあった翌年のことである。
キリシタン時代から潜伏キリシタン時代に日本にやってきた神父たちは皆修道会司祭であったが、シドッチ神父はただ一人の教区司祭であった。
日本の教会を案じるローマ教皇
シドッチ神父はなぜ日本に派遣されたか。シドッチ神父を尋問した新井白石の記録『西洋紀聞』などによれば、日本におけるキリシタン迫害に心を痛めていた教 皇は、当時の支那及びシャムにおいて一旦禁じられたキリスト教が再び自由を回復したことに鑑み、日本においてもキリスト教解禁を期待し、正式使節の先触れ としてシドッチ神父を日本に派遣することにしたのである。のちに長崎で発見された潜伏キリシタンたちが、パパ様に派遣されるパードレ(神父)たちがやって くることを待ち望んでいたことが知られているけれども、ローマ教皇のほうも迫害下の日本の教会を案じていたことが、シドッチ神父の派遣はよく示してい る。
将軍にキリスト教解禁を訴えるのが来日の目的
こうしてみると、シドッチ神父は特別の任務を帯びて日本にやって来たの であり、ただの宣教師とは赴きを異にしている。また、キリシタン禁制下の日本でその使命を果たすためには、シドッチ神父ははじめから捕らえられることを覚 悟していた風がある。取調べを受けた薩摩においても長崎においても、江戸に行って将軍に会いたいとしきりに訴えた。将軍に会ってキリスト教の解禁を訴える のが教皇使節の先触れとしてのシドッチ神父の使命だったのである。それにしても、なぜ彼は侍姿で来たのだろうか。マニラの日本人町で侍の小道具を整えたと いうから、日本に入国するには侍姿がよいと勧められたのかも。(次回に続く)
———2006年11月25日付糸永真一司教のブログ「折々の想い」から転載