シドッチ神父

『大江戸曲者列伝』にシドッチ神父

投稿日:2014年4月13日 更新日:

samurai-sidotti先日、新聞の書評を見てなんとなく興味をそそられ、買って読んでいる野口武彦著『大江戸曲者列伝』(新潮新 書)の中の数ある「曲者」の中に、シドッチ神父が入っていたので驚いた。シドッチ神父はなぜ曲者の列に入るのか。一般の日本史の中であまり語られないから であろうか、それとも特別に興味ある人物だからであろうか。

そういえば、日本の教会の中でもシドッチ神父はあまり知られていないのではないか。そこで、少 し思い出してみよう。わたしはキリシタン史の専門家ではもちろんないが、シドッチ神父の上陸地が鹿児島の屋久島であり、現地では毎年、町主催の「シドッチ 祭」があって、そこで講演を頼まれたこともあり、シドッチ神父来日の真相を知りたいと調べてみたことがある。以下はその一端。

たった一人の教区司祭宣教師

ジョバンニ・バッチスタ・シドッチは1668年シチリアのパレルモ生まれ、若くしてローマに出て神学校に学び、ローマ教区司祭に叙階された。そして 1703年、35歳のとき、時の教皇クレメンス11世より日本に行くよう命じられた。赤穂浪士の討ち入りのあった翌年のことである。

キリシタン時代から潜伏キリシタン時代に日本にやってきた神父たちは皆修道会司祭であったが、シドッチ神父はただ一人の教区司祭であった。

日本の教会を案じるローマ教皇

シドッチ神父はなぜ日本に派遣されたか。シドッチ神父を尋問した新井白石の記録『西洋紀聞』などによれば、日本におけるキリシタン迫害に心を痛めていた教 皇は、当時の支那及びシャムにおいて一旦禁じられたキリスト教が再び自由を回復したことに鑑み、日本においてもキリスト教解禁を期待し、正式使節の先触れ としてシドッチ神父を日本に派遣することにしたのである。のちに長崎で発見された潜伏キリシタンたちが、パパ様に派遣されるパードレ(神父)たちがやって くることを待ち望んでいたことが知られているけれども、ローマ教皇のほうも迫害下の日本の教会を案じていたことが、シドッチ神父の派遣はよく示してい る。

将軍にキリスト教解禁を訴えるのが来日の目的

こうしてみると、シドッチ神父は特別の任務を帯びて日本にやって来たの であり、ただの宣教師とは赴きを異にしている。また、キリシタン禁制下の日本でその使命を果たすためには、シドッチ神父ははじめから捕らえられることを覚 悟していた風がある。取調べを受けた薩摩においても長崎においても、江戸に行って将軍に会いたいとしきりに訴えた。将軍に会ってキリスト教の解禁を訴える のが教皇使節の先触れとしてのシドッチ神父の使命だったのである。それにしても、なぜ彼は侍姿で来たのだろうか。マニラの日本人町で侍の小道具を整えたと いうから、日本に入国するには侍姿がよいと勧められたのかも。(次回に続く)

---------2006年11月25日付糸永真一司教のブログ「折々の想い」から転載

お勧めの記事

中野裕明司教の紋章 1

約3年間の地上での宣教活動で発信されたイエスのメッセージの主旨はただ一つ、それは「あなたたちが信じ礼拝している神は、わたしの父であり、また、あなたたちのお父さんである」ということです。

中野裕明司教の紋章 2

人祖アダムの罪(原罪)の傷を負った人類は、あるいは、洗礼によって、原罪から解放された信者であっても、自分の責任で犯す神の十戒への違反は神から赦される必要があります。そうしないと、その人は一生、自己矛盾の中で苦しむことになります。

中野裕明司教の紋章 3

「幼児洗礼」と「成人洗礼」という二つの洗礼のかたちは、「親子愛」と「隣人愛」の関係で捉え直すことができるのではないかと思います。つまり、幼児洗礼を親子関係で、成人洗礼を隣人関係で捉えるという事です。

中野裕明司教の紋章 4

ミサでキリストの体をいただく信者は皆、キリストの体を形成している、という事です。1943年、教皇ピオ十二世は「キリストの神秘体」と題する回勅を発布し、当時の教会論の基礎に据えました。聖体拝領する信者はその度ごとにキリストを救い主とする信仰共同体を形成していくのです。

中野裕明司教の紋章 5

イエスの極めつけの言葉を送ります。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(ヨハネ6・27)

-シドッチ神父
-,

Copyright© カトリック鹿児島司教区 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.