鹿児島教区司教 中野裕明
「王であるキリスト」⇒ 典礼暦年最後の祝日
教区の皆さま、お元気でしょうか。今回は「王であるキリスト」についてお話しします。
典礼暦年の最後の主日に教会は「王であるキリスト」を祝います。それは、イエス・キリストが地上で成し遂げた救いの神秘を1年を通して典礼で記念する典礼暦の最後を締めくくるのにはとても相応しい祝日であるからです。
当日のミサの叙唱で司祭は次のように唱えます。「あなた(聖なる父、全能永遠の神)はひとり子である主イエス・キリストに喜びの油を注ぎ、永遠の祭司、宇宙の王となさいました。(中略)その王国は、真理と生命の国、聖性と恩恵の国、正義と愛と平和の国」である、と。
キリスト信者は、この世に住みながらもこの世に満足することなく、国籍である神の国へ向かって、旅をしている神の民であります。従って、この世の政治家の中に利権だけではなく「真理と生命の国」、「正義と愛と平和の国」を心底大切にする価値観を持つ人々が増えるように祈りたいと思います。
「真理と生命」について
今回は、「真理と生命」についてだけ詳しくお話ししたいと思います。つまり、為政者とイエスとの関係についてです。
ヨハネ福音書(ヨハネ18・33〜38参照)によると、ローマ人の総督ピラトはイエスに尋問します。「お前がユダヤ人の王なのか?」
それに対して、イエスは「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
そこで再度、ピラトは尋ねます。「それでは、やはり王なのか」と。
再度イエスは答えます。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」さらにピラトは尋問しま。「真理とは何か」と。
結局この尋問はここで終わり、イエスに死刑を宣告することになります。つまり、真理についての明確な回答は得られていないわけです。
ところで、真理についてイエスは別の箇所(ヨハネ8・31〜38参照)で、真理について語っています。
「わたしの言葉にとどまるならば、(中略)あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と。
この自由という言葉を聞いて、ユダヤ人たちは、自分たちはかつて奴隷になったことはない、と主張します。
それに対してイエスは「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。(中略)あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。」
さらに「あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている」(40節)。
つまり、イエスの主張によれば、人々は罪の状態にある以上、真理を理解できないし、しかも真理を証ししているイエスを殺そうとしている、というのです。では、なぜ人々はそのような状態にあるのかと言えば、その答えは宣教生活を始める前にイエスが受けた悪魔の誘惑の話にヒントがあります。
40日間の断食の後、イエスは悪魔からの誘惑に遭います。2番目の誘惑で悪魔は次のように言います。「悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる』」。
これにイエスは次のように答えます。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』」と。(ルカ4・5〜8参照)
つまり、イエスに死刑の判決を下したローマ総督ピラト(為政者)の背後にいるのは、この世を支配していると豪語している悪魔であることをイエスは把握しています。従ってこの世の論理は神の国の王であるイエスの主張と対立します。その結果、真理そのものであるイエスと命がこの世の為政者によって消されるというドラマを読み取ることができます。
以上の考察で、真理と生命の関係、そしてそれらを拒み、亡きものにしようとする悪魔の存在、そしてそれに加担する人間の罪の存在が浮き彫りになったと思います。人類がこの真実に目覚めない限り、永久にこの地上に平和は実現しないと確信します。
利害関係で構築されている政治の世界であっても、少なくとも神の国の価値観、すなわち「真理と生命」を大事にする政治家が増えることを願ってやみません。