司教の手紙

司教の手紙⑦---「信仰とは神の招きに応えること」

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皆さん、お元気ですか?
今回は、教区代表者会議のテーマである「教会の3つの柱」のうち第1番目の柱についてお話しします。

第1番目の柱は「集まる」(エクレシア)です。私たちは自分の意志で教会に集まっていると思っているかもしれませんが、実は、神の招きに応えた結果であることを思い起こしたいと思います。

エフェゾの信徒への手紙に驚くべきことが書かれています。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと御心のままに前もってお定めになったのです」(エフェゾ1・4~5)。

この文書の内容はいわゆる「神の救いの計画」と言われるものです。「誰が」、「誰を」、「いつから」、「誰によって」、「何のために」選んだのかが明確に述べられています。もちろん、この文章は聖パウロの主張の一部に過ぎないので、エフェゾ書1章全体をゆっくり味わってほしいと思います。

ある哲学者が言いました、「人は誰でも幸福になりたいと願っているが、どうしたら幸福になれるのかを知らない」と。私たちは幸いに信仰をいただいています。この信仰に基づいて幸福を追求しています。したがって、どんなに親しいお友達でも価値観の違いによって幸福の内容が異なることを感じることがあります。

かつて、迫害時代、日々増加していくキリスト教徒を見て、ローマ皇帝が家臣に尋ねたそうです。「あの人たちは何を信じているのか?」と。家臣が答えました。「彼らは死んだ人間が復活したことを信じています」と。それを聞いた皇帝は「なんと馬鹿なことを信じているのだ」と感じたに違いありません。

そのような考えの根底には、この世が提供する享楽で満足すればいいのではないか、という思想があると思います。

私たちも「神を信仰している」と言いながら、この世の価値観に紛れて、この世が提供する幸福のみを求める傾向に流される危険に常にさらされていると言っても過言ではありません。新約聖書が編集された時代はキリスト教が一般に認められていない時期であったことを忘れてはなりません。

だとしたら、神様のメッセージは、信仰を持っていながら迫害の対象(誤解を恐れずに言うなら、いじめの対象)になっている人々に向けられていると考えることができるでしょう。

さて、私たちは、それでもなお、心から「信仰をいただいてよかった」と言えるでしょうか?聖アウグスチヌスは次のような意味の言葉を残しています。「神よ、あなたは私の同意なしに私を造った。しかし、私の同意なしには救われない」と。

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