教区の皆さま、お元気でしょうか。
前回、家族の中の親子関係について考察しましたので、今回は兄弟関係についてお話したいと思います。
世界平和は『人類みな兄弟で暮らせば』実現
兄弟関係とは、基本的には血縁による繋がりです。しかし平等ではありません。同じ親から生まれた間柄ですが、年齢差、能力差、健康・不健康の差などを見るとそう言えます。それでも、両親はいろんな意味で不平等な子供たちをできるだけ公平に愛そうと努めます。
ところで、教皇フラシスコは昨年10月、回勅「兄弟の皆さん」(仮称)を発布なさいました。ここで言われている「兄弟」とは、血族に当たるいわゆる狭い意味での兄弟ではなく、人類、宗教、出自、国籍、肌の色などを乗り越えたところの「全人類」という意味です。旧約聖書の世界でも同じ祖先から派生した他の民族のことも兄弟として表現されている、という指摘があります。(「聖書思想辞典」281ページ参照)
そういえば「人類みな兄弟、世界が平和になりますように」と書かれた小さな看板が街角の塀にはめ込まれているのをよく見ます。それは「世界の平和は、人類がみな兄弟として暮らせば実現する」というメッセージだと思います。今回はその話をしたいと思います。
「兄弟」の物語を聖書から紐解くと…
「兄弟」という言葉を聞いたとき、私たちは、聖書の中の二つの物語を思い浮かべます。それは「カインとアベル」の話(創世記4章)と「放蕩息子のたとえ話」(ルカ15・11~32)です。
カインは嫉妬から弟アベルを殺し(創世記4)
まず「カインとアベル」の話です。二人は人祖アダムとエワの間に生まれた兄弟でした。カインは農業、アベルは牧畜を営んでいました。二人とも、自分が生産した初物を神に奉納していました。ところが、神はアベルの供え物に目をかけられた、ということでカナンは悩み、その結果アベルを殺害してしまいます。聖書の中では、最初の殺害事件となります。この個所については、聖書思想辞典にはいろんな解説がなされていますが、特にカインの殺害の動機については、カインのアベルに対する「しっと」であるとされています。(同上281ページ参照)
人祖アダムとエワの罪は、「神の意向に背いた」といういわば内的な違反でしたが、次の世代になって、殺害という実害が生じたということになります。爾来、人類の歴史は戦争の歴史として、刻まれることになったのです。この好ましくない、人類の戦争の歴史のきっかけとなったのが、カインの「ねたみ」又は「嫉妬」だと言えないでしょうか。
放蕩息子の兄は弟に妬みを抱く(ルカ15)
一方、「放蕩息子のたとえ話」を見てみましょう。放蕩の限りを尽くして、死に目に遭った弟が回心して父の家に戻ったとき、父親は大変喜んで、彼を迎え、しかも小牛を屠って宴会を催します。それを見た兄は、父に詰問します。
「わたしは、何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰ってくると肥えた子牛を屠っておやりになる」すると父親は言った、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った」(ルカ15・29~32)。
つまり、兄は弟のことを「あなたの息子」と認識しているのに対して、父親は「お前の弟」と認識していることが分かります。この事実から分かるように、兄は、父親は弟をえこひいきしていると思い込んでいます。つまり兄は弟に対して、「ねたみ」の心を抱いている、いうことが分かります。と同時に、兄弟の関係は崩壊しています。
兄弟愛を育むことが如何に大事なことか
カインとアベルの話もいくらか似ています。カインがアベルを殺害した後、「主はカインに言われまた。『お前の弟アベルはどこにいるのか』。カインは答えた。『知りません。わたしは弟の番人でしょうか』」(創世記4・9)。
「兄弟は他人の始まり」と日本では言われています。だとすれば、兄弟愛を育むことが如何に大事なことか、それは人類が殺し合う戦争の防止に欠かせないことだから、だと言えます。
鹿児島カトリック教区報2021年8月号から転載