司教の手紙

司教の手紙 ㉚ 平和の源としての兄弟愛

投稿日:2021年7月31日 更新日:

教区の皆さま、お元気でしょうか。
前回、家族の中の親子関係について考察しましたので、今回は兄弟関係についてお話したいと思います。

世界平和は『人類みな兄弟で暮らせば』実現

兄弟関係とは、基本的には血縁による繋がりです。しかし平等ではありません。同じ親から生まれた間柄ですが、年齢差、能力差、健康・不健康の差などを見るとそう言えます。それでも、両親はいろんな意味で不平等な子供たちをできるだけ公平に愛そうと努めます。

ところで、教皇フラシスコは昨年10月、回勅「兄弟の皆さん」(仮称)を発布なさいました。ここで言われている「兄弟」とは、血族に当たるいわゆる狭い意味での兄弟ではなく、人類、宗教、出自、国籍、肌の色などを乗り越えたところの「全人類」という意味です。旧約聖書の世界でも同じ祖先から派生した他の民族のことも兄弟として表現されている、という指摘があります。(「聖書思想辞典」281ページ参照)

そういえば「人類みな兄弟、世界が平和になりますように」と書かれた小さな看板が街角の塀にはめ込まれているのをよく見ます。それは「世界の平和は、人類がみな兄弟として暮らせば実現する」というメッセージだと思います。今回はその話をしたいと思います。

「兄弟」の物語を聖書から紐解くと…

「兄弟」という言葉を聞いたとき、私たちは、聖書の中の二つの物語を思い浮かべます。それは「カインとアベル」の話(創世記4章)と「放蕩息子のたとえ話」(ルカ15・11~32)です。

カインは嫉妬から弟アベルを殺し(創世記4)

まず「カインとアベル」の話です。二人は人祖アダムとエワの間に生まれた兄弟でした。カインは農業、アベルは牧畜を営んでいました。二人とも、自分が生産した初物を神に奉納していました。ところが、神はアベルの供え物に目をかけられた、ということでカナンは悩み、その結果アベルを殺害してしまいます。聖書の中では、最初の殺害事件となります。この個所については、聖書思想辞典にはいろんな解説がなされていますが、特にカインの殺害の動機については、カインのアベルに対する「しっと」であるとされています。(同上281ページ参照)

人祖アダムとエワの罪は、「神の意向に背いた」といういわば内的な違反でしたが、次の世代になって、殺害という実害が生じたということになります。爾来、人類の歴史は戦争の歴史として、刻まれることになったのです。この好ましくない、人類の戦争の歴史のきっかけとなったのが、カインの「ねたみ」又は「嫉妬」だと言えないでしょうか。

放蕩息子の兄は弟に妬みを抱く(ルカ15)

一方、「放蕩息子のたとえ話」を見てみましょう。放蕩の限りを尽くして、死に目に遭った弟が回心して父の家に戻ったとき、父親は大変喜んで、彼を迎え、しかも小牛を屠って宴会を催します。それを見た兄は、父に詰問します。

「わたしは、何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰ってくると肥えた子牛を屠っておやりになる」すると父親は言った、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った」(ルカ15・29~32)。

つまり、兄は弟のことを「あなたの息子」と認識しているのに対して、父親は「お前の弟」と認識していることが分かります。この事実から分かるように、兄は、父親は弟をえこひいきしていると思い込んでいます。つまり兄は弟に対して、「ねたみ」の心を抱いている、いうことが分かります。と同時に、兄弟の関係は崩壊しています。

兄弟愛を育むことが如何に大事なことか

カインとアベルの話もいくらか似ています。カインがアベルを殺害した後、「主はカインに言われまた。『お前の弟アベルはどこにいるのか』。カインは答えた。『知りません。わたしは弟の番人でしょうか』」(創世記4・9)。

「兄弟は他人の始まり」と日本では言われています。だとすれば、兄弟愛を育むことが如何に大事なことか、それは人類が殺し合う戦争の防止に欠かせないことだから、だと言えます。

鹿児島カトリック教区報2021年8月号から転載

お勧めの記事

中野裕明司教の紋章 1

約3年間の地上での宣教活動で発信されたイエスのメッセージの主旨はただ一つ、それは「あなたたちが信じ礼拝している神は、わたしの父であり、また、あなたたちのお父さんである」ということです。

中野裕明司教の紋章 2

人祖アダムの罪(原罪)の傷を負った人類は、あるいは、洗礼によって、原罪から解放された信者であっても、自分の責任で犯す神の十戒への違反は神から赦される必要があります。そうしないと、その人は一生、自己矛盾の中で苦しむことになります。

中野裕明司教の紋章 3

「幼児洗礼」と「成人洗礼」という二つの洗礼のかたちは、「親子愛」と「隣人愛」の関係で捉え直すことができるのではないかと思います。つまり、幼児洗礼を親子関係で、成人洗礼を隣人関係で捉えるという事です。

中野裕明司教の紋章 4

ミサでキリストの体をいただく信者は皆、キリストの体を形成している、という事です。1943年、教皇ピオ十二世は「キリストの神秘体」と題する回勅を発布し、当時の教会論の基礎に据えました。聖体拝領する信者はその度ごとにキリストを救い主とする信仰共同体を形成していくのです。

中野裕明司教の紋章 5

イエスの極めつけの言葉を送ります。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(ヨハネ6・27)

-司教の手紙
-

Copyright© カトリック鹿児島司教区 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.