司教の手紙

司教の手紙 ㊽ 「イエスの復活」の理解を深める

投稿日:2023年4月3日 更新日:

鹿児島教区司教 中野裕明

教区の皆さま、主イエスのご復活おめでとうございます。復活の慶びが教区全体に行き渡りますように。

今回は復活節に因んで、イエスの復活についてお話しいたします。

私は、ある信者さんから、「自分は信者ですが、最近イエスの復活が信じられないのです」という告白を受けたことがあります。私は「それはありうることだろう」と思いました。それで今回のテーマを選びました。

まず、イエスと弟子たちや婦人たちの関係について見てみましょう。

イエスが人々の前に公になったのは、30歳過ぎてからでした。イエスは「神の国の到来」について民衆に語りかけると同時に、特定の人に声をかけ弟子をつくりました。勿論イエスに魅了され、彼の後を慕う女性もいました。彼らにとってのイエスは、「ナザレのイエス」でした。父はヨセフで、母はマリアという理解でした。そして、イエスの言動を見て、「もしかしたらこの人こそ、政治的指導者となって、住みやすい国をつくってくれる方ではないか」と期待を寄せていました。これが第1段階です。

しかし、3年間の活動後、ナザレのイエスはユダ王国の宗教指導者や統治者たちによって殺されてしまい、イエスに希望を賭けていた弟子たちは絶望を経験します。これが第2段階です。

ところが、3日目に、殺されて埋葬されたはずのナザレのイエスは親交のあった弟子たちや女性たちに現れて、自分が生きていることを証明しました。これが第3段階です。

復活したイエスに出会った弟子たちは、当時の聖書、つまり現在の旧約聖書を丹念に読み返し、預言者たちが言及していたイスラエル民族に遣わされることになっているメシア(救い主)とは、復活して、自分たちに現れた、あの「ナザレのイエス」であるとの確信を得たのです。これが第4段階です。

さらに、かつてはユダヤ教の教師で、復活したイエスに追随している信者を「ユダヤ教に戻らせよう」と迫害していたサウロが、復活したイエスに出会い、キリスト教に改宗します。そして、ガリラヤ出身で生前のイエスを知っている弟子たちと共に、復活したイエスを世界中の国の人々に知らしめる、いわゆる宣教活動を始めることになります。これが第5段階です。

日本に生まれ、キリスト教とは異なる日本文化の中で育った私たちはどのようにして、キリスト教徒になったのでしょうか。

それは、人生の途上で遭遇した困難や危険から救われた経験があるからではないでしょうか。救いのきっかけとなったイエスの言葉、あるいは聖書の一節、あるいは自分に向けられた無償の愛、それらに魅せられて洗礼を望んだのではないでしょうか。

私は、「お金持ちになりたい」とか、「有名になりたい」とか、「偉い人になりたい」とかの動機で洗礼を望んだ人にこれまで出会ったことがありません。大抵の人は、自分の惨めさを認め、神の祝福を求めて受洗します。つまり自分の善のためです。

ただ、先ほどのイエスの復活が信じられなくなった人の場合、第2段階の弟子たちの状態ではないかと思います。

つまり、イエスへの期待が薄れてしまう。弟子たちの場合は、もっと悲惨で、絶望の状態に陥っていました。しかし、第3から第4段階で弟子たちの生き方は180度変化しました。聖書を研究しました。特にイエスの受難物語を丹念になぞりました。そして、悟ったのです。「愛する師であったイエスが十字架上で殺される羽目になったのは、ほかでもない自分に内在する罪(原罪)である」ということを。

さらに考えました。通常、人間の世界では罪を犯すと罰が下ります。しかし、イエスの場合は、イエスに対して、罪を犯しても返ってきたのは「ゆるし」だったことを(ヨハネ20・19~23参照)。

私たちは、通常、自分が犯す罪には敏感です。それは多分自分の評判を保つために他人から悪く思われないためです。

しかし、思い出してください。イエスの受難劇の中で、ピラトがこのイエスをどうしようかと群衆に問いかけたところ、群衆はイエスを「十字架につけろ」と叫んだことを(ルカ23・23参照)。

そのことによりピラトはイエスの死刑を確定しました。罪のないイエスを殺す計画と実権は確かに、宗教指導者と統治者にありました。しかし、それを実行に移す決定打となったのは、イエスを「十字架につけろ」と叫ぶ民衆の意志だったことは確かです。

これこそ「原罪」と言われるものの正体です。イエスは復活して、「ゆるし」という方法で人類からこの原罪を取り除いて下さったというわけです。イエスの復活の理解は私とはどのような人間であるかの理解を深めるものでもあります。

鹿児島カトリック教区報2023年4月号から転載

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