司教の手紙

《2024年 年間目標》洗礼の恵みに気づき、それを生きよう(7)

投稿日:2024年6月30日 更新日:

中野裕明鹿児島司教

中野裕明鹿児島司教

鹿児島教区司教 中野裕明

「ゆるしの秘跡」について

教区の皆さま、お元気でしょうか。今回は「ゆるしの秘跡」についてお話しします。

キリスト信者にとって「ゆるしの秘跡」は頭では理解していても、いざ実行するとなるとかなりの心理的プレッシャーがあることは確かです。司教である私も例外ではありません。むしろ、「ゆるしの秘跡大好き」という人がいらしたら「その人大丈夫かな」と思ってしまいます。

先ず、ゆるしの秘跡の実践に当たり、「何をゆるしてもらうのかが分からない」ということがあります。スコラ哲学(カトリックの哲学)の一つの命題に、「人は考えたように行動するのではなく、行動したように考える」というのがあります。「私たちは自己本位に生きていて自分の行動は自己肯定であるから、それを否定するのは難しい」ということです。

2番目に、日本人の一般的感性では、いわゆる「罪」と「犯罪」が混同して使われることがあります。

ある20代の声楽家が、優勝のご褒美で1年間のイタリア音楽留学をしました。その際、女子修道院に無償で滞在したのですが、そこで、シスター方と彼女との間で次のような対話がなされたそうです。

「あなたは、日本人ですか?」
「はいそうです」
「カトリック信者ですか?」
「いいえ、違います」
「では洗礼を受けなければいけませんね」
「え? 何故ですか?」
「あなたは罪人だからです」
「え? 私は警察に捕まるような事は一切していませんけど」

この問答で、彼女は憤慨し「自分は一生洗礼なんか受けるものか」と意を固めました。後日談ですが、それから40年後、定年退職を機に彼女は洗礼を受けたそうです。

このように、「罪」と「犯罪」は混同されますが、両者の違いは以下のようです。

「犯罪」は法律に反する行為で、人間の行為として表面化したものに限ります。原初的には「神の十戒」(モーセの律法)があります。

神の十戒は元来、「十個の神のことば」という意味ですが、その神の意思を厳格に遵守するために細かい法律を作ってそれらを基礎にしているのがユダヤ教です。律法学者やファリサイ派の人たちの生きざまは、福音書の中に見られます。

「罪」は、律法学者によるとモーセの律法に反することになります。しかし、イエスは律法を表面的に遵守することが、神の十戒の精神を実行することにはならないとし、新しい解釈を提示します。マタイ福音書5章~7章の山上の説教を精読してください。

3番目に指摘したいことは、60年前に閉会した第二バチカン公会議後、歴代の教皇は、それまでカトリック教会が信者に与えてきた神のイメージが「正義の神」、「裁く神」だけであったことを反省し、神が愛であること、その愛の具体的な表れとしての「いつくしみ」を強調するようになりました。特に教皇聖ヨハネ・パウロ2世の回勅「いつくしみ深い神」(1980年)は当時の教会に強いインパクトを与えました。

教皇フランシスコは2015年、いつくしみの特別聖年公布の大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」を発布しました。その中で、教皇は次のように言っています。

「教会は、第2バチカン公会議の出来事を生き生きと保つ必要を感じています。この出来事によって、教会の歴史は新しい段階へと移りました。公会議教父たちは、現代の人々に神のことをもっと分かりやすい方法で語らなければならないということを、聖霊のまことの息吹として、はっきりと感じていました。あまりに長い間教会を特権のとりでに閉じ込めていた壁が崩れ、新たな方法で福音を告げる時が到来したのです。(中略)教会は、御父の愛の生き生きとしたしるしとして世にある責任を自覚したのです。」(4番)

つまり、教皇フランシスコは、多くのキリスト信者の心を覆っていた「正義の神」、「裁く神」のイメージが「いつくしみ深い神」というイメージに転換することを強く望んでいるのです。

そういえば、ミサの式文の中では祈りの冒頭に「いつくしみ深い神」が多用されていることに気づくのではないでしょうか。

鹿児島カトリック教区報2024年7月号から転載

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