司教の手紙

聖年に寄せて(2)律法と福音

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中野裕明鹿児島司教

中野裕明 鹿児島司教

鹿児島教区司教 中野裕明

教区の皆さま、お元気でしょうか。今回は四旬節中に黙想してほしいテーマについてお話しします。それは「律法と福音」です。

このテーマは「旧約と新約」と言い換えてもいいです。すなわち、イエスの死と復活の出来事は、律法が支配していたユダヤ教の世界に、福音が支配する世界が現出したことを指します。さらに言うなら「地上の国の現実に、神の国の建設が始められた」とも言えます。

ユダヤ教の核心としての律法

ユダヤ人として生まれたイエスは、成人になるまで、律法を忠実に遵守してきました。ところが、宣教生活を始めるや否や、ユダヤ教の指導者たちと律法の解釈について論争を始めます。(マタイ5・17〜48参照)

ユダヤ教にとって律法とは、モーセを通して神から与えられた教えで、日常生活全般にわたる規程です。彼らはこれらの規程を厳格に守れば守るほど、神のご加護があると信じていました。そんな中、イエスは600以上の細則が盛られた律法の規程に対して、それらの存在は許容するが、果たして、それらは律法の付与者である神の意図に沿ったものであるかどうかを問いただしたのです。

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2・27)などのイエスの主張はことごとく当時の宗教指導者のプライドを傷つけ、ついには、彼らをイエス殺害の計画へとかり立て、彼らはそれを実行に移していきました。

イエスの律法の理解

イエスは、律法の解釈について、宗教指導者たちに対して攻撃ばかりしていたわけではなく、正統な議論もしています。

「律法の中で何が一番大切な教えか」という質問に対し、「それは第1に神への愛、2番目が隣人への愛である」と答えています。(マタイ22・34〜40、マルコ12・28〜38、ルカ10・25〜28参照)

また、次のような箇所もあります。

「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」(マタイ23・2〜3)

イエスにとつて、律法は神の意思の表れであり正しいものですが、如何せん、それを実行する人間の側に問題があることを分かっていたのでした。

律法の裁決による十字架によるイエスの死

宗教指導者たちによるイエスの裁判は「自分を神の子だ」と自称したことが、神への冒とく罪に当たるとの裁決で、死刑が宣告されました。つまり、イエスは律法によって裁かれたのです。

律法は神の意思の表現。それによると、神は唯一でですから、イエスが自分を神の子と自称することは、当然、律法の掟に反することです。従ってその判断自体は間違ってはいないと言えます。しかし、ローマ総督ピラトは「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」。(ルカ23・15〜16)と無罪を認めながら、自分の名誉のために世論に負けて、死刑を許可しました。

イエスの復活による「ゆるし」の実現

イエスの復活の第1の効果は、「罪のゆるし」です。(ヨハネ20・19〜23参照)

聖霊のわざとして弟子たちに与えられたゆるしの権能とその効果が「福音」として、新しい神の民を形成するようになったのです。もちろん、この罪の赦しは、人祖の罪(原罪)と自分の責任で犯す罪(自罪)を指しています。

肉のわざと霊の実り

聖霊による洗礼を受けて、新しい神の民とされた教会では、新しい表現で、律法と福音の教えを説いています。ガラテアの信徒への手紙にそれを垣間見ることができます。少しその背景について説明します。

聖霊降臨後、イエスの弟子たちが宣教活動を始めますが、弟子たちは皆ユダヤ人で、その対象もユダヤ人でした。

彼らは律法のことは熟知しているので、割礼の掟も知っていました。それで、洗礼の前に割礼を授けるべきか否かについて議論していました。ペトロ以下、ガリラヤでイエスから召命を受けた弟子たちは、洗礼前の割礼の執行に賛成でした。しかし、これに猛烈に反対したのが、嘗てはユダヤ教の教師でしたが復活したイエスに出会ってから、改宗したパウロでした。

激論の末、結局パウロの主張が受け入れられ、ユダヤ教から完全に決別したキリスト教が誕生したのでした。その結果、イスラエル民族のための律法から、全人類のための福音へと変貌するために、肉のわざと霊の実りで新しい律法が説明されたのだと理解することができます。具体的には以下の通りです。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです、(中略)これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテアの信徒への手紙5・19〜23)

良い四旬節お過ごしください。

鹿児島カトリック教区報2025年3月号から転載

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