司教の手紙

司教の手紙 ㉞ 聖マリアと聖ヨセフとともに神の子の誕生を祝う

更新日:

教区の皆さま、お元気でしょうか。

今回はクリスマスを迎える準備として、マリア様とヨセフ様のことに思いを馳せながら信者としての生き方を求めていきたいと思います。

幼子誕生の次第はルカとマタイに

幼子イエス誕生の次第については、ルカ福音書2章1~21節とマタイ福音書1章18~25節に記されています。教会や幼稚園で上演されるイエス誕生劇、いわゆる「聖劇」の物語はこの二つの福音書をもとにして構成されています。内容的にはマリア様のことはルカ福音書から、ヨセフ様についてはマタイ福音書から引用されています。個別に見ていきたいと思います。

マリア様の場合、洗礼者ヨハネの誕生物語と並列する形で記されています。つまり、洗礼者ヨハネ誕生の予告(ルカ1・5~25)、イエス誕生の予告(同1・26~37)、洗礼者ヨハネの誕生(同1・57~66)、イエスの誕生(同2・1~21)。両者に遣わされた天使は、ガブリエルで共通していますが、①予告の対象者、②予告の場所、③予告の内容が違います。

予告の対象者=洗礼者ヨハネの場合は、その子のお父さんとなるザカリアで、祭司でした。イエスの場合は、ヨセフという人の許嫁で、マリアという少女でした。

予告の場所=ザカリアは神殿で、祭司職の務めを果たしている最中でした。マリアは、ナザレという小さな町の家の中でした。

予告の内容=ザカリアに対して天使は、「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリザベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」(ルカ1・13)というもので、一方、マリアに対しては、「おめでとう、恵まれた方。主があなた共におられる」という語りかけでした。この点について両者の違いが分かるでしょうか?

ザカリアとマリアへのお告げの違い

ザカリアに対しては、長い間子供を願っていた夫婦に対して、その願いが叶うという喜ばしい知らせだったのに対し、マリアへの予告は、まるで予期しない事柄で、まるで、宝くじの主催者が当選者に一方的にその喜びを告げるような雰囲気さえ感じさせるものでした。

ところで、その後、天使との対話が続くのですが、ザカリアは、高齢の妻に今更子供ができるはずはないと、知らせに疑問を呈しました。一方、マリアは「自分は男の人を知らないのにどうしてそのようなことがありえましょう」(ルカ1・34)と疑問を呈しながらも、「神にできないことは何一つない」(同1・37)との天使の言葉を受け入れて、最終的には神の意思を受諾します。

この、二人への予告と幼子イエスの誕生は、旧約時代と新約時代の境目にあって、それぞれの時代の特徴を表しています。

旧約時代は、祭司ザカリアのように神から与えられた律法を果たしながら、子宝に恵まれました。しかし、天使の言葉を信じ切る、というところまではいきませんでした。それでも神の介入で、洗礼者ヨハネは生まれました。一方マリアの場合は、身分の卑しい一介の少女に過ぎないにもかかわらず、神は彼女の同意を求めました。彼女の「はい」がなければ、幼子はこの世に誕生することはなかったに違いありません。

ヨセフの場合に話を移します。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにすることを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は、自分の民を罪から救うからである』」(マタイ1・18~21)

「ヨセフは正しい人だった」とは?

この文章の中の「ダビデの子ヨセフ」と「ヨセフは正しい人だった」とについて説明いたします。

マタイ福音書の冒頭にあるイエス・キリストの系図によると、確かにヨセフはダビデの系図に連なっています。(マタイ1・16)神がダビデの家を子々孫々絶やさない、という意思は、イザヤ書7章12~14節に見受けられます。紀元前733年、ダビデ家が治めるエルサレムは、北側に位置する二つの部族が結託して、エルサレムに攻撃しようとしていました。その時アハズ王が取った行動は、遠く離れた異邦人のアッシリアの王と手を結ぶことでした。このことを知った神は預言者イザヤをアハズ王に遣わして発した言葉が、「イザヤは言った。『ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に もどかしい思いをさせることだけでは足りず わたしの神にももどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ』」(イザヤ7・13~14)。この預言後、約200年間イスラエル国を失い、異邦人の支配下に下ることになります。しかし、イエスの誕生のころは、ローマ帝国の支配下にありながらも、神殿建立によってダビデ王の威光は続いていました。但し、イザヤが予言した幼子は、この世の王ではなく人類の罪をゆるす王になる方でした。

「ヨセフは正しい人だったと」いうのは、律法を厳格に守る人というより、「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人」(詩編1・2)であると言えます。そうでなければ、自分の知らないところで妊娠した許嫁マリアをゆるすことはできなかったはずです。律法で禁止されている妊娠を自分の子供として認知し、法的に父親としてマリアとイエスを受け入れたのです。彼がそうしてくれなければ、母マリアと幼子は、路頭に迷い、早晩命を落としていたに違いありません。母子の保護者は同時に教会の保護者でもあります。メリー・クリスマス。

鹿児島カトリック教区報2021年12月号から転載

お勧めの記事

中野裕明司教の紋章 1

今回は世界宣教の日(10月23日)に因み、禁教令下最後の宣教師シドティ神父についてお話します。彼は、1708年屋久島に上陸、すぐに捕らえられ、長崎の奉行所で尋問を受け、翌年、江戸に送られ、キリシタン屋敷に収監されます。

中野裕明司教の紋章 2

教皇フランシスコが命がけで、訴えていることは、二つの回勅で指摘されていることがらが真実であるかどうかを、私たちが暮らしている現場、あるいは日常生活の中で確認する作業を怠らないようにということです。

中野裕明司教の紋章 3

イエスの指摘(マタイ10・34~39)は、私たちの生活の現実を見事に言い表しています。つまり、たとえ血縁関係にあっても平和は構築しがたい、もし平和が欲しいなら、自分とイエスとの関係性で考えなさい、という勧告です。

中野裕明司教の紋章 4

「いのちの福音」は神からいただいたすべての「人間のいのち」について、カトリック教会の教えを体系的に論述したものですが、私は、胎児のいのちに限り、論点だけをお話いたします。

中野裕明司教の紋章 5

「イエスのみ心」の信心の始まりは、あくまで十字架上で血を流された、あのイエスの心(愛)を観想することです。「永遠のいのちの糧であるパン」と「多くの人の罪のゆるしのために流される血」を受けて、イエスの愛を生き、他者を愛する力が与えられるよう祈りましょう。

-司教の手紙
-

Copyright© カトリック鹿児島司教区 , 2022 All Rights Reserved Powered by STINGER.