司教の手紙

司教の手紙 ㉜ 天地の創造主、全能の父である神を信じます

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教区の皆さま、お元気でしょうか。

今回は私たちが主日のミサで必ず唱和している使徒信条の冒頭の句「天地の創造主、全能の父である神を信じます」の意味をご一緒に考えてみます。

新型コロナウイルスの世界的感染拡大(パンデミック)が始まってから、約1年半以上が経ちました。このいわゆる「コロナ禍」の中で、私たちの思考、生活習慣、そして信仰の捉え方などに変化が生じているでしょうか? もし、何の変化も感じていなくて、旧態以前のままの精神状態だとしたら、今後もますます悲惨で、希望のない人生を送ることになるかもしれないと心配しています。(これはある意味、パンデミックが起きなくても存在している人間の現実でもあります)。人類の今日があるのは、歴史の中でこれまでに起こった感染症によるパンデミックを見事に克服してきた事実の上にあるからです。そのことの認識がなければ、人間は悲観論者になってしまいます。

それで今回は、私たちが頂いている信仰に基づいて、明るくて希望のある未来を築くために神の英知に目を向けてみたいと思います。

私は、科学者ではありませんが、今回のコロナ禍にあって、種々の言論人(評論家、医者、科学者、政治家、マスコミ等)の発言を毎日、丁寧に聴取し、その内容について熟考し分析をしてきました。その結果、自分の中では、どのような発言が事柄の本質を突いているか、どの人が自己の良心に基づいて発言をしているかについて、ある程度めどがついてきました。

そこで、その結果を皆さんと分かち合っていきたいと思います。次に引用する文章はウイルス学の専門家である山内一也著の「ウイルスの世紀」(みすず書房2021年3月12日9日)からのものです。

「人類はウイルス発見以来、ワクチンや治療薬、分離・判定技術、情報網などの対抗手段を急速に発展させてきた。しかし、その一方で、人間社会の発展そのものがあらたなウイルスの出現を促し、感染を加速させているという見方もできる。動物やヒトが密集し、短時間に長距離を移動できるようになったことにより、ウイルスと新たな宿主が出会う機会が急増し続けている。」

専門用語の多い上記の文章を科学に素人の私が説明いたします。

(1)ウイルスという物質(生命体かそうでないかは現在議論中)が感染症の病原菌であることが判明したのは、20世紀に入ってから。

(2)ウイルスは、動物、植物、人間、海洋も含む微生物の中に存在する。それは細菌のように単独では存在できず、必ず、宿主を必要とする性質をもつ。

(3)ウイルスは19世紀後半に感染症の病原体であると特定された細菌(ライ菌、コレラ菌、結核菌など多数)を宿主とすることが判明。ウイルスの大きさは、細菌の千分の1程度と小さい。(電子顕微鏡でしか捉えられない)

(4)人間文明の発達以前は、動物、植物、人間間の棲み分けがなされていたが、人類の自然開発により、棲み分けが崩されていった。以前ウイルスは、動物→動物、植物→植物の移動だったのが、自然開発によって、動物→人間、植物→人間が可能になった。そして今、新型コロナウイルスは、はたして動物からの感染なのか、あるいは人から人への感染なのかという一点に世界中が注目している現実がある。

(5)三番目の人間から人間への感染の可能性については、国家安全保障上の問題(いわゆる国家秘密)で、誰も口外できないのが事実。

以上の考察の後、教皇フランシスコは三つの文書、回勅「ラウダート・シ―ともに暮らす家を大切に―」、使徒的勧告「愛するアマゾン」、回勅「兄弟の皆さん」で、地球規模の環境破壊に関心を持つように訴えています。教皇の心からの叫びを、コロナ禍以前は空言のように捉えていた私たちは、今、真剣に教皇の訴えに耳を語ける時が来たと思います。

ところで、回勅「ラウダート・シ」の始まりにある賛歌「わたしの主よ、あなたはたたえられますように、わたしたちの姉妹である母なる大地のために。大地は、わたしたちを養い、治め、さまざまな実と色とりどりの草花を生み出します」は、実は、アシジの聖フランシスコ作の「太陽の歌」(『アシジの聖フランシスコの小品集』聖母の騎士社 1988年 52ページ)からの引用です。因みに10月4日は聖フランシスコの祝日で、実は、バチカンが定めている9月1日から始まる『世界環境月間』の最終日に当たります。

この賛歌は地球上の被造物のすべてを自分の兄弟姉妹として受け止め、その創造主である神を褒めたたえる、という内容のものです。このような思想は、創世記や詩編、そして、本原稿の表題の信仰宣言の冒頭の文言にあるように、キリスト教の首尾一貫したものです。

私たちは、人類にとってウイルスとの共存は宿命である、と判明した今日、真摯に自然界と人間の造り主である神に祈りを捧げ、そのみ旨を探し求めていくべきではないでしょうか。新型コロナに注意しながら、神を畏れる日々を送りたいものです。「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1・7)

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