司教の手紙

司教の手紙 ㉟ 過去を見直し、今を見極め、未来に備える~教区創立記念日に寄せて~

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教区の皆さま、お元気でしょうか。

2月25日、私たちは「教区創立の日」を祝います。今年は67周年になります。教区創立とは、教区司教が任命され、ローマ教皇庁管轄であった使徒座知牧区から自立した、という意味です。それは教会法的に言うなら、世界に広がる「普遍教会」の中の、一つの部分教会として認められたということです。司教は使徒の後継者であるローマ教皇から任命され、叙階され、教皇と結ばれた司教団の一員となります。こうして、普遍教会と部分教会(教区)が密接に結ばれることになります。

さてこの機会に鹿児島教区のことを3つの視点から皆さんと分かち合いたいと思います。

過去の見直し

鹿児島教区小史をご覧になれば分かるように、今日の私たちがあるのはこれまで、尽力して下さった歴代の司教、司祭、修道者、信徒の皆さまのお陰であります。ただ、私は単に過去の「振り返り」ではなく、「見直し」をする必要を感じています。

鹿児島教区小史

1927年3月18日、鹿児島、沖縄両県は長崎教区から分離され、鹿児島使徒座知牧区となった。カナダのフランシスコ会に委託され、知牧区長にはE・ロア師が任命された。同師1936年に辞任、山口愛次郎師が使徒座管理区長となった。山口師は翌年、長崎教区司教に就任したが、引き続き管理者を兼任、1940年に出口一太郎師がその任を引き継いだ。第2次世界大戦後、アメリカ合衆国の占領下に置かれた沖縄と奄美諸島は、1947年、ローマ教皇庁直轄の地域となった(奄美諸島は1953年12月25日、日本に復帰)。

1955年2月25日、鹿児島使徒座知牧区は司教区に昇格、初代教区司教に里脇浅次郎師が任命され、同年5月3日、司教に叙階された。同年、5月8日、奄美諸島は鹿児島教区に正式に移管された。1968年12月19日、里脇司教は長崎教区大司教に任命され、翌年3月16日に着座した。後任として1969年11月15日、糸永真一師が任命され、翌年1月18日、司教に叙階、着座。

2005年12月3日、糸永司教の引退に伴い郡山健次郎師が鹿児島司教に任命され、翌年1月29日に司教に叙階された。

2018年7月7日、郡山司教の引退に伴い中野裕明師が鹿児島司教に任命され、同年10月8日、司教に叙階された。

(イヤーブックより)

教会は時代の社会情勢、つまり、この世のニーズ(必要)に応える形で発展してきたと思います。太平洋戦争終結後、日本は自由と民主主義を掲げた米国の支援によって戦後復興を果たしました。その大きな流れの中で教会は大きく発展しました。発展したとは言っても海外からの多く宣教師の方々の働きによるものでした。宣教師方は多くの犠牲を払いながら、物心両面にわたり日本人を支援してこられました。

昭和30年初期まで教会には米国から、「ララ物資」(アジア救済連盟。1946年、米国の宗教、教育、労働など13団体が第二次大戦後のアジアの生活困窮者を救済する目的で結成した組織。日本など各国に食料・衣料など供与した。)が送られて来ていました。これらの支援は信者を対象としたものではなく、教会を通して一般の人々に配給されていました。結果として、日本におけるキリスト教会の評価は高まったと思います。

一方、教区は福音宣教を推進するために、外国の信者さんからの援助によって、教会や施設(幼稚園、学校、福祉施設)を設立しました。それらは皆、時宜に適ったものだったと言えます。

今を見極める

2022年現在、高度成長期の昭和の記憶は薄れつつあります。

あらゆる分野のデジタル化が進み、進歩の速度が増しています。このようなご時世にあって、指摘されるのが、「今だけ、自分だけ、お金だけ」という風潮です。福音宣教を主旨として存在している教会としては、上記の風潮があることを是認しつつ、人々に「福音の喜び」を提示していくしかないと思います。なぜなら、上記の風潮を生み出したのは、とりもなおさず、昭和時代の人々の努力の結果から、導き出されたものであると認識できるからです。すなわち、戦後復興を目標に、経済の高度成長を追求してきた結果得た豊かさが上記の風潮を生み出したのだとすれば、教会は「神の国を希求する」という価値観を一層意識すべきではないでしょうか。

未来に備える

2020年は時代の趨勢の一大転換期であったと思います。

天災か人災かは別にして、新型コロナウイルスのパンデミックにより、世界中の人々の意識に変化が生じたのではないかと思います。意識の変化には次の事柄が挙げられます。

①これまでの生活習慣の見直し
②人生の価値観の自己決定
③確実な未来への指針探し

①については、ご先祖さま、祖父母や両親から伝授されてきた生活習慣の知恵の再評価が挙げられます。科学技術の驚異的な進歩に足元をすくわれることなく。仮想ではなく、実体験を思考の基礎にすべきです。

②については、将来、自分の身に降りかかる事態を冷静に引き受けるために必要な価値観を明確にしておくこと。

③については、情報過多によって自分の進むべき進路に迷いが生じる時、聖書にそれを求めれば良いと思います。なぜなら、聖書は約4000年にわたる、神とその民との対話の記録だからです。別名、「神による人類救済の歴史」と言われます。

聖書愛読運動に参加しましょう。

鹿児島カトリック教区報2022年2月号から転載

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