鹿児島教区司教 中野裕明
教区の皆さま、お元気でしょうか。今回は聖霊降臨についてお話しいたします。
5月は「聖母マリア」、6月は「イエスの聖(み)心」について話しましたが、肝心な聖霊についてお話する機会がなかったので、今回お話します。
先ず、聖霊とイエスとの関係について。
イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたとき、「天が裂けて“霊”が鳩のようにご自分に降って来るのを、ご覧になった。」(マルコ1・10)とあり、続けて、「それから“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」(同12節)とあります。このように聖霊とイエスの関係は密接なものでした。ご受難の前にイエスは弟子たちに遺言を残されました。
「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解でない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16・12~13)。
この話の直前には次のようにも話しています。
「わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。」(同7節)
つまり、イエスの地上での生活の間、聖霊はイエスの中にいたことになります。
復活の日の夕方、復活したイエスは弟子たちに現れて、言われました。
「『あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(ヨハネ20・21~22)、と。
イエスはご昇天の前にも聖霊が降る約束を弟子たちにしています。
「『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである』」。さらに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1・4~8参照)
そして聖霊降臨の場面です。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると。突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が、分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(同2・1~4)。
上記の指摘で明らかなように、聖霊降臨は教会の誕生日であると言えます。2千年前に起きた聖霊降臨の出来事は、過去に起きた一回限りのものではなく、聖霊は今も教会の中で、働いておられます。問題は、聖霊による洗礼を受けたはずのキリスト信者の私たちが、そのことを完全に忘れているか、あるいは無視しているかに依ると言えます。
もちろん、2千前の聖霊降臨のような場面は、世俗的価値観では、せいぜい、狂信者の集まりであるオカルト宗教のようにしか捉えられないかもしれません。然し教会は「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ、と言ってあざける者もいた」との言葉に対して反論したペトロの言葉、「今は朝の九時ですから、この人たちはあなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。」(使徒言行録2・12~15参照)を信頼しています。
そんな中、カトリック教会は、信者の一人一人に降った聖霊のたまものと、聖霊の実りについて、以下のような用語をあてて、教会生活の中で、確実に実行され、徳として身に付けるように指導してきました。
聖霊の7つの「たまもの」は、①上智、②聡明、③賢慮、④勇気、⑤知識、⑥孝愛、⑦主への畏敬、です。
一方、聖霊の12の「実り」は以下のものです。
①愛、②喜び、③平和、④忍耐、⑤寛容、⑥善意、⑦親切、⑧柔和、⑨誠実、⑩謙遜、⑪節制、⑫貞潔。
様々な意味で、混迷しているこの世にあって、聖霊に聞き、その促しに従って生きる人生でありますように。