司教の手紙

司教の手紙 54 ミサのカテケージス ③

投稿日:2023年10月1日 更新日:

鹿児島教区司教 中野裕明

「天から降ってきた生けるパン」をめぐる話

教区の皆さん、お元気でしょうか。

今回はミサの中で頂くご聖体についてお話します。

「ご聖体」と言うと、信者の皆さんは「キリストの体である」と信仰によって理解していますが、福音書が編集された頃(紀元100年頃)そのことについてどんな議論があったかについてお話しします。

ヨハネ福音書は、紀元100年頃に編纂されたと言われます。聖霊降臨によって教会が誕生してから、60~70年後ぐらいの頃です。使徒たちや聖パウロの宣教活動で教会が拡散して行きました。それは、ユダヤ民族を形成しているユダヤ教の人々や多神教を信奉しているヘレニズム(ギリシャ思想)文化圏の人々との対話を通しての福音宣教活動でした。

今回お話しするのは、ヨハネ福音書の第6章で描かれているものです。この章は、イエスが多くの人々の空腹を満たしたパンの増加の奇跡のお話です。

このお話は、マタイ、マルコ、ルカの福音書にも収録されているものですが、とりわけヨハネは、このお話を秘跡としての聖体を提示するとともに、そこに込められた神の意図とそれに対する人間の側の応答、つまり信仰について考えさせる内容になっています。以下ポイントを挙げて説明します。

①パンを与える方こそ人々の統治者

パンの増加によって満腹した人々は、イエスを王にするために連れて行こうとします。しかし、イエスはこれを嫌い、山に退かれます。(ヨハネ6・14~15参照)

パンはラテン語のパーニスからきていますが、生きるために不可欠な食料を与える人のことを「パパ」(フランス語)と呼ぶようになりました。ローマ教皇もパーパと呼ばれますが、中世期には霊的な意味と同時に地上的な意味も含まれていたことも事実です。

このパンの増加の行われた頃、イスラエルにおいてイエスの人気は絶好調だったと言えます。なぜなら人々の飢えを解決する人こそ、民衆の統治者(王)になるべき方だからです。しかし、これは天の父のみ旨ではありませんでした。

②わたしは天から下ったパン

イエスは言います。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6・26)この挑発的なイエスの言葉に対して、ユダヤ人は問います。神のわざのしるしを見せろと。

そして、自分たちの先祖はモーセを通して、荒れ野でマンナを食べました。これは、「天からのパンを彼らに与えて食べさせた」と聖書の言葉にある通りだと主張します。

それに対して「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」と答え、「そのまことのパンこそわたしである」と主張しています。

モーセの律法に絶対的な権威を置くユダヤ教徒にとって、「自分こそモーセを凌ぐ」というイエスの発言に許しがたい感情を抱いたことも事実です。

イエスがここで言う「しるし」とは、外見上実際のパンでも実体はイエス自身であるという秘跡という新しい捉え方を提起しています。トリエント公会議(1545~1565)は、そのことを実体変化(Transubstantiatio)と定義しました。それは丁度、私たちが頂いた贈り物をありがたく思うと同時に、その贈与者の心にも思いをはせ感謝を表すことと同じであります。

③イエス自身の死と復活を通して現実化する聖体

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからある。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(ヨハネ6・53~57)。

イエスのこの言葉は、イエスの受難、十字架上での死、そして、復活というイエスの一連の贖いのわざに与かった、あるいは体験したイエスの弟子たちの理解が加味されていることは確かです。

しかし、イエスの福音宣教の途中で、このようなイエスの言葉を聞いたユダヤ人たちはもちろん、弟子たちさえも、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言い、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」(ヨハネ6・60、66)のはある意味で、当然であると考えられます。

ただ、私が主張したいのは次のことです。確かに私たちは信教の自由が保障されている今日、殉教者のように命を懸けて信仰を証しする機会に恵まれないかもしれません。しかし、人生のなかで、不当な仕打ちや悪意のある攻撃に晒されたり、真実を貫くために多大な忍耐を強いられたりするとき、受難のイエスを想起し、自分の背負うべき十字架をイエスの十字架に合わせて祈るのです。

④「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」

主の祈りの後半の冒頭で、私たちは上記のように祈ります。ここで言う「日ごとの糧」とは何を指しているのでしょうか。

ある聖書の脚注では次の2カ所を解釈の参照として挙げています。

「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。」(ヨハネ6・32)。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(同上6・35)

つまり、「日ごとの糧」とはご聖体を指しているとも考えられます。

最後にイエスの極めつけの言葉を送ります。

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(ヨハネ6・27)

さらに、イエス自身の食べ物は、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4・34)

すなわち、キリストの体であるご聖体を頂く私たちは、キリストのように天の父のみ旨を最優先に生きる者に変化させられる、という事であります。

鹿児島カトリック教区報2023年10月号から転載

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