司教の手紙

「待降節」の意義

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中野裕明鹿児島司教

中野裕明 鹿児島司教

教区の皆さま、お元気でしょうか。

今回は救い主イエスをお迎えする待降節の意義についてお話しします。それは、クリスマスを単なる行事、またはイベントとして終わらせることのないためです。3点についてお話しします。

その1.「待降節」は原語では「アドベンツス」と言い「向こうからやってくる」という意味です。「時間の流れの中に、イエスがやってくる」ということです。

時間の流れの中では、2千年前にすでに来られたわけですが、復活なさったイエスは救いの計画を完成なさるために再度来臨なさるのです。待降節はそのイエスに出会うために準備する期間であります。

日本の昔話に「桃太郎」の話があります。おじいさんとおばあさんが川の上流から流れてきた桃を切ると、中から大きな男の子が出てきました。長じて桃太郎は鬼退治をしたという物語です。ただ桃太郎とイエスとの違いは、前者は偶然流れて来たのに対し、イエスの場合は「神が定めた時」(ガラテア書4・4参照)に来たことでした。つまり、神は預言者を通して「イエスの誕生を予告していました」ということです。

その2.「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。」(イザヤ書9・1〜2)

この句はイエス誕生の約500年前に書かれた文章ですが、救い主の誕生を預言するものとして、待降節の典礼に用いられています。闇の中を歩んでいる民、また、死の陰の地に住む者とは、現代を生きている私たちのことを指していると考えられます。ただし、この世の栄華を求め、飽くなき欲望を満たすために生活している人々には、無縁のメッセージでしょう。

この世で挫折し、絶望の中にいる人たち、また、高齢のため、孤独と迫りくる死に恐怖を感じている人々こそ、救い主を待ち望む心が高まるはずです。

幼子イエスを腕に抱き、老シメオンは神をほめたたえながら言いました。

「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(ルカ2・28〜29)

信仰によって、老シメオンはこの幼子は自分の救い主であると理解したのでした。

その3.洗礼者聖ヨハネとイエスの授ける洗礼の違いについてお話しします。洗礼者聖ヨハネは次のように言っています。

「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後からくる方は、(中略)聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイ3・11参照)

この「火」についてフランシスコ会聖書は次のように解説しています。

「この火は、物質的な火ではなく、聖霊のかたどりである。火が鉄を熔かして精錬するように、聖霊は人の心を熱して清くする。水によるヨハネの洗礼は外的なしるしにすぎず、それ自体は内的影響を及ぼす力はない。キリストの洗礼はキリストの霊によって内的変化が行われるしるしである。」(マタイ3・11脚注参照)

教会がクリスマスを公に祝えるようになったのは、ローマ皇帝コンスタンチヌスよるミラノ勅令(313年)発布からです。この時からキリスト教は「邪教」というレッテルがはがされ、信教の自由が認められたのです。つまり「自分たちの信仰が公に表現できる」、それがクリスマスの原点であるともいえます。

降誕祭を端的にクリスマス、すなわち「キリストのミサ」というのは示唆的です。さらに、公に神の子の誕生を祝うことは自分の神の子としての誕生(洗礼)を祝うこととも重なります。

赤ちゃんはその存在だけで周りの人々に喜びをもたらします。赤ちゃんは自分では何もできませんが、いのちの輝きを放っています。

それまでローマ人の宗教はミトラ教でした。ミトラ教は太陽を神として礼拝していました。キリスト教を公認したコンスタンチヌス皇帝は「これからはキリストこそ我々の太陽だ」と宣言したのです。自然界の太陽は、外面から人間を温めますが、この世を照らす光であるキリストは、わたしたちを内面から温め希望を与えます。その希望はいのちに関するものです。(ヨハネ1・1〜5参照)

鹿児島カトリック教区報2025年12月号から転載

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