福音宣教者イエスに学ぶ
教区の皆さま、お元気でしょうか。
今回は福音宣教者イエスについてお話しします。
「福音宣教」と聞くと、「私たちにはそんなことは到底できない」としり込みをします。しかしご安心ください。イエスさまご自身が福音宣教者だったのです。従ってイエスさまのこの世での言動を見ればその内実が分かります。
イエスの宣教の始め
イエスは、30歳になられたころから宣教活動を始めています。まず洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時の様子は次の通りです。
「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降ってくるのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ3・16〜17)
この情景はとても印象深いものです。30歳になるまで、イエスはヨゼフさまと大工の仕事をしていたようです(マルコ6・3参照)。その仕事を辞めて、福音宣教という新しい活動を始めました。
「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1・14)
この世の仕事は大切です。しかし、ある時点で神ご自身が人間に直接介入なさる場面があります。洗礼の場面では2回「そのとき」がありました。
最初は、聖霊がその人の上に降る時、もう一回は、天の父から「わたしの愛する子である」との認証を得た時です。
話はそれますが、最近「自己肯定感が低い」とか「自己承認欲求が高い」という表現をよく聞きます。対して主の活動の源は何らかの自己認識ではなく天の父からの承認でした。福音宣教者の原点はここにある
と思います。
故教皇フランシスコのモットーは「愛した、そして選んだ」でした。選んでから愛したのではなく、愛する事が先にあります。私たちの社会の在り方とは逆です。
「神の国」の宣布こそ福音宣教の眼目
神の国は地上の国とは反対です。地上の国は人間が支配しますが、神の国は神が支配なさる国のことです。ローマの総督ピラトの「お前がユダヤ人の王なのか」との尋問に対し、イエスは次のようにに答えます。
「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」(ヨハネ18・36)
神の国へ招かれている人々
すべての人が神の国に招かれていますが、とりわけ心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐み深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々、イエスのためにののしられ、迫害されている人々、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人々がそうです。(マタイ5・1〜11参照)
人々の自由な判断を促すための「たとえ話」
「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。」(マルコ4・33)イエスの語るたとえ話の代表的なものは「種を蒔く人」(マルコ4・13~20)のたとえです。
ある人が種蒔きに出た。ある種は道端に、ある種は石だらけに土地に、ある種は茨の中に、ある種は良い土地にそれぞれ落ちた。その結果、それらの種の育ち具合に大差が出たという話です。この場合、蒔かれる種は神のことば、蒔く人は宣教師、結果が異なるのはみ言葉を聞く人の心の状態よるというのがイエスの解説です。
この話は、福音宣教に励む、弟子たちの経験が下地になっています。懸命に福音宣教に従事しても、その実りはわずかなものです。そのような現実に対して、イエスが慰めの言葉をかけていると理解することができます。
福音宣教の総決算、それは死と復活による贖いの業
イエスのご変容のとき、雲が現れて彼らを覆い、「『これはわたしの子。選ばれた者、これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた。」(ルカ9・35)とあります。
このご変容の前にイエスは自分の死と復活の予告しますが、それに続けて次のように招きます。
「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである』。」(ルカ9・23〜24)
イエスの宣教の始めにあった天の父からの認証が再び、ご変容の時にありました。しかし、前者と異なるのは、受難を前にしたイエスは、弟子たちを誘っていることと、天からの声が、「彼に聞け」とイエスの誘いを後押ししている点です。
