回心こそが世の人々への証
鹿児島教区長 司教 中野裕明
鹿児島教区の信者(司祭・助祭・奉献生活者・信徒)のみなさま、新年明けましておめでとうございます。この一年、みなさまの上に、神様の豊かな祝福がありますようにお祈り申し上げます。
さて、「一年の計は元旦にあり」と申しますが、今年の年頭の辞は、「わたしの司教職の計は元旦にあり」ということになります。つまり、司教紋章の聖句に掲げたモットーは、今年限りではなく、私の在任中ずっと継承すべきものであるといえます。
もちろん、「神の国」というテーマは、イエスご自身の生涯のテーマでしたし、イエスがもたらした、福音のキーワードです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ11・15)。
ですから、私の在任中という言い草も本来おこがましいことであります。
ところで、イエスの宣教活動はこのメッセージで始まり、72人の弟子を宣教に遣わすにあたり、出会う人々に「『神の国は、あなた方に近づいた』といいなさい」(ルカ10・9)と訓示を与え、ご自分の死と復活によってこの世の悪と死に勝利し、この世に神の国を実現させたあと、神の国の王としての権能を12使徒に付与し、福音宣教者として全世界に派遣したのです。
「全世界へ行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」(マルコ16・16)。
このメッセージの後半は、まさに神の国が実現したことのしるしであります。
これまで、聖書(神のことば)が語るメッセージを紹介しましたが、人間の理性で理解するところの「神の国」には次の二つがあると思います。一つは、「神権政治」、もう一つは、「ユートピア」です。
「神権政治」とは、別名、「政教一致」ともいえるものですが、古代社会(有史以来4世紀まで)においては、民を治める人の権威は神から授かったものという教えが一般的でした。いわゆる祭りごとを主催する人が、政治を行うというわけです。
ところで、イスラエルの民も王が支配する、一つの国でした。それで人々は、ナザレのイエスに、もしかしたら、自分たちの王(メシア)ではないかとの期待を込めていました。イエスの選んだ12人の弟子たちでさえ、大衆と同じ様な期待をイエスに賭けていたことも事実です(マタイ20・20~28参照)。しかし、イエスは「神の国」の王ですが、この世の国の王ではありません(ヨハネ19・36参照)。私たち信仰者も天の父の思いよりも、人間的願望をイエスにかけ過ぎることがあるかもしれません、12人の弟子たちと同じ様に。
「ユートピア」とは理想郷のことです。16世紀、イギリス社会の理想の姿を描いた、トマス・モアの作品のタイトルとして使われて以来、一般化したものですが、元来、ユートピアはギリシャ語で「ない場所」という意味です。
つまり、「ユー」は否定語で「トピア」は「トポス」の派生語で場所を意味しています。イエスが地上で始められた「神の国」は、ある意味で、「教会」として、この世に存続しているといえます。しかし、イエスはその説教の中では、「神の国」を「種まき」、「からし種」、「パン種」、の比喩を持って説明しています(マタイ13・18~51参照)。つまり、神の国は、生命あるもの、最初は小さいが、やがて成長するものとして理解されています。だとしたら、成長しない教会は、「神の国」とは言えないとも言えます。
最後に、この「神の国」で一番偉い人はだれでしょうか。イエスは明言しています。「心を入れ替えて、子供のようにならなければ、決して、天の国(神の国)に入ることはできない」(マタイ18・3)教会に属するわたしたちの回心こそが、この世の人々に対して「神の国」がここにあるよ、という証しになるのではないでしょうか。