年頭の言葉

教区の現状を認識し、祈りの力で行動に移しましょう!

投稿日:

郡山司教

お隣・ご近所宣教へのチャレンジを

鹿児島教区長 司教 郡山健次郎

教区の皆さん、新年あけましておめでとうございます。新しい年をどのように迎えたのでしょうか。こうして教区報で新年の挨拶をするのも12回目になりました。

異邦人の庭

昨年10月、東京潮見のカトリック会館で「新福音化の集い」がもたれ、各教区から二人の代表者が送られました。皆さんは、新福音化という耳慣れない言葉に戸惑うかもしれませんが、私はこの言葉を聞いた時、聖ヨハネ・パウロ2世の「新しい福音宣教」という言葉を思い出しました。

2010年の世界広報の日のテーマは「司祭とデジタル世界における司牧、みことばに仕える新しいメディア」というものでした。その中で、教皇は、「まだ神を知らずにいる人に、エルサレム神殿の『異邦人の庭』のような場を提供するものとして、ウェブを思い描くことはできないでしょうか」と述べておられます。

エルサレム神殿には、聖所を中心に、ユダヤ教徒だけが入ることのできる庭と誰もが自由に出入りできるいわゆる異邦人の庭があったそうです。復元図を見ると、それはかなり広大なもので、実際、今に残るエルサレム神殿の庭は大勢の観光客で賑わいアラブの人々も行き来しているのを見たことがあります。

当時、ネット宣教を標榜していた者として、私は、インターネットの世界を「異邦人の庭」とされたことに歓喜したものです。ネットの宣教的価値については今も同じ思いを持っています。

私は異邦人の庭ところで、新しい福音宣教にしろ新福音化にしろ、私たち一人ひとりが「動く異邦人の庭」という発想は大事かと思います。「福音化」というと難しい感じがしますが、「私は動く異邦人の庭」とすると、文字通り動きが出てきます。フランシスコ教皇は「出かける教会」を推奨しておられますが、私たちは、元気であれば、どこにでも自由に出かけることができます。私たち一人ひとりが教会というわけですから、意識してもしなくても、私たちは「出かける教会をやっている」ことになります。

問題は、そんな私たちが「異邦人の庭」のような誰をも排除しないみんなを自由に迎える空間を作っているかということではないかと思うようになりました。反省と自戒を込めて言うのですが、ただの気難しい老人をやっているなら老害をばらまいていることになり、せっかくの自由往来の庭を台無しにしていることになるのだと気がついたのです。

自分にしがみつくのでなく、何歳になっても若者たちの励みとなり、皆の賞賛を受けているあのスポーツ選手たちのようにレジェンド(伝説)を目指す「異邦人の庭」になりたいと思っています。

現実に直面して

そうは言っても、鹿児島教区の現状は信徒数減が続き低迷しています。昨年11月初め、那覇で開かれた長崎教会管区司教・事務局長会議のことは12月号の司教執務室便りで書きました。

その時配布された各教区の1994年から2014年までの20年にわたる信徒数の増減一覧の資料を目にしたときの衝撃はいまだに生々しく脳裏から離れません。

繰り返しますが、1994年の幼児洗礼は61人、成人洗礼は92人、20年後の2014年は幼児洗礼27人でほぼ半減、成人洗礼は34人でほぼ3分の1に激減していることに言葉を失いました。手元の統計を見ると2016年は幼児洗礼27人でまったく同数。成人洗礼は45人と11人増で少し上向きましたが今年はどうなるのでしょうか。

この数字で示された現実は「教会の宣教力が低下している」ことを意味していると言えるでしょう。何よりも、「全世界に行って福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)というイエス様の強い願いが軽んじられていることになります。これは教会の危機だと感じました。だからといって、下を向くのでなく、司祭信徒の奮起が促されるところです。

お隣ご近所宣教

私は皆さんの生活環境を知りません。つまり、どんなお隣さんがいて、どんなご近所付き合いをしているのか見当がつませんが、「愛は近くから遠くへ」の原則に従えば、一番身近なお隣ご近所の皆さんのことを大事にするのは当然のことです。これも執務室便りで書いたことですが、「出かける教会」となるための第一歩がお隣ご近所と仲良くすることであることは言うまでもありません。

「お隣ご近所に手作りのお漬物を分けてあげている」という話を聞いたのは何の集まりだったか、つい最近のことです。班会のある小教区なら、「私の宣教」と題してそんな体験の分かち合いも励みになるはずです。そうでなくても、ミサ後のお茶の時間にそんな分かち合いをぜひ持ってほしいと思います。
遠くにいる身内、とくに子供や孫たちも近い存在です。いつも心に掛けて祈っているでしょうし、電話で連絡を取り合ってもいることでしょう。今は誰もがスマホを持つ時代になりました。こうした便利なものを駆使して身内への宣教に活用していただきたいと思います。そんな分かち合いもぜひやってみてください。手作りの新福音化作戦が展開することを祈ります。

射祷のすすめ

「神よ、わたしを力づけ、急いで助けに来てください。」

これは教会の祈りの時、初めに唱える祈りです。
私は、病気の人や問題に直面している人のために祈るときこの祈りを応用して次のように唱えます。
「主よ、〇〇さんを顧み、急いで助けに来てください。」

私はこの祈りを宣教射祷と呼んでいます。射祷とは「矢を射るような短いけれど力強い祈り」(女子パウロ会HPより)。

確かに短いのですぐに口ずさむことができます。それだけに神さまにスッと飛んでいくイメージがあって気に入っています。

道を歩く時も一日に何度でも口にします。主婦の皆さんは台所の仕事をしながらでもできます。「主よ、感謝します、賛美します」の射祷と併用することを勧めます。是非試してください。こうして誰かのために耐えず祈っていると、いろいろ気になることがあっても、穏やかな気持ちに満たされるようになるから不思議です。宣教は祈りとともになされるものであり、神さまと直接つながる祈りによって人ともつながることを忘れてはなりません。今年も御父からの豊かな祝福のもと身近な人々に愛の福音を届けることができるよう心から祈ります。

お勧めの記事

中野裕明司教の紋章 1

約3年間の地上での宣教活動で発信されたイエスのメッセージの主旨はただ一つ、それは「あなたたちが信じ礼拝している神は、わたしの父であり、また、あなたたちのお父さんである」ということです。

中野裕明司教の紋章 2

人祖アダムの罪(原罪)の傷を負った人類は、あるいは、洗礼によって、原罪から解放された信者であっても、自分の責任で犯す神の十戒への違反は神から赦される必要があります。そうしないと、その人は一生、自己矛盾の中で苦しむことになります。

中野裕明司教の紋章 3

「幼児洗礼」と「成人洗礼」という二つの洗礼のかたちは、「親子愛」と「隣人愛」の関係で捉え直すことができるのではないかと思います。つまり、幼児洗礼を親子関係で、成人洗礼を隣人関係で捉えるという事です。

中野裕明司教の紋章 4

ミサでキリストの体をいただく信者は皆、キリストの体を形成している、という事です。1943年、教皇ピオ十二世は「キリストの神秘体」と題する回勅を発布し、当時の教会論の基礎に据えました。聖体拝領する信者はその度ごとにキリストを救い主とする信仰共同体を形成していくのです。

中野裕明司教の紋章 5

イエスの極めつけの言葉を送ります。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(ヨハネ6・27)

-年頭の言葉
-

Copyright© カトリック鹿児島司教区 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.