祖父母と高齢者のための世界祈願日

投稿日:

日時:
2022年7月24日 終日
2022-07-24T00:00:00+09:00
2022-07-25T00:00:00+09:00

第2回「祖父母と高齢者のための世界祈願日」教皇メッセージ 2022年7月24日

第2回「祖父母と高齢者のための世界祈願日」教皇メッセージ
2022年7月24日
「白髪になってもなお実を結び」(詩編92・15)

最愛なる仲間の皆さん

詩編92の一節「白髪になってもなお実を結び」(15節)は、よい知らせ、真の「福音」であり、第2回「祖父母と高齢者のための世界祈願日」の機に、世に告げ知らせるべきものです。これは、この年代についての世の見方とは逆行するものであるとともに、わたしたち老人の中に見られる、ほとんど希望もなく、もはや未来への期待もなく過ごす人のあきらめの姿勢とも正反対のものです。

多くの人にとって、老齢は恐怖です。どうにか避けたい病気のようなものとして、それは捉えられています。老人は自分には関係ない――そう彼らは考え――、なるべく離れて、できれば皆で介護施設で暮らしてもらい、面倒を見なければならない状態は避けたいと考えています。それが「使い捨て文化」です。こうしたメンタリティは、自分たちはあの弱い人とは違うのだ、あの人たちの脆弱性とは無関係だという気にさせて、「わたしたち」と「あの人たち」にはそれぞれ別の道があると思い込むことを正当化します。しかし、本当のところ、聖書が教えているように、長寿は祝福であり、老人は疎まれる存在ではなく、いのちを豊かに与えてくださる神のいつくしみの生きたしるしです。高齢者を世話する家庭は幸いです。祖父母を敬う家族は幸いです。

確かに、老いというのはなかなか理解しがたく、それはすでに老いを経験しているわたしたちにとっても同じです。長い旅路の後にやってくるとはいえ、だれ一人として覚悟してはこないので、不意打ちを食らったように感じます。先進国では、この年代に対して多くを投じていますが、老齢期についての理解を助けてはくれません。介護事業はあっても、実存に関する事業はありません1。だから、未来について考え、目指すべき地平を捉えることが難しいのです。一方では、老いを払いのけようと皺(しわ)を隠し、いつまでも若いふりをしながらも、他方では、もはや「結べる実」はないとあきらめて、楽しみにすることもなく過ごしていくしかない、そんなふうになっています。

引退し、子どもが独立したことで、これまでエネルギーを注いできたモチベーションを失います。体力の衰えを実感したり、病気になったりすることで、自信が揺らぐこともあります。世の中の流れは速く、わたしたちはそれについていくのが大変ですが、ほかに手段がないように思い、自分たちは用なしなのだという考えを受け入れてしまいます。だから詩編の祈りはこう叫ぶのです。「老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください」(71・9)。

しかし、人生のあらゆる時期における主の存在を振り返るこの詩編は、期待する心をもち続けるようわたしたちを招きます。老いて白髪になっても、主はいのちを吹き込み続け、わたしたちが悪に打ち負かされることがないようにしてくださいます。主を信頼するならば、ますます主を賛美する力を得(14—20節参照)、そうしてわたしたちは、年を取ることは、肉体の自然な衰えやどうにもならない時の経過であるだけでなく、長寿というたまものでもあると気づくでしょう。年を取ることは、呪いではなく祝福です。

そのためにわたしたちは、自分を律し、精力的に年を重ねることを学ばなければなりません。霊的な観点からもそうで、神のことばを熱心に読み、日々祈り、秘跡にあずかり、典礼に参加することで、内面を豊かにして年を重ねるのです。また、神とのかかわりとともに、他者とのかかわりも豊かにしていかなければなりません。まずは、わたしたちが心から愛情を注ぐ家族、子ども、孫とのかかわりがありますが、それだけでなく、貧しい人や苦しんでいる人、具体的な援助と祈りをもって接しなければならない人とのかかわりです。これらによってわたしたちは、この世という劇場で単なる観客だという思いに陥らず、「バルコニーから眺める」、窓からのぞくだけにはならないのです。そうはならずに、主の存在に気がつけるよう感覚を研ぎ澄ますことで2 、わたしたちは「神の家にある生い茂るオリーブの木」(詩編52・10参照)のように、そばで生きる人たちにとっての祝福となるのです。

老齢期は、舟に櫓(ろ)を置き隠退の身となる無益な年月ではなく、なお実を結び続ける年代です。わたしたちを待つ新たな使命があり、未来に目を向けるよう招いています。「人間を人間らしくする、気配り、思慮深さ、愛情、これらについてわたしたち老人、高齢者がもつ特別な感受性は、再び多くの人の召命となるべきです。それは、新しい世代に対して高齢者が示す、愛という代案です」3。これは「優しさ革命」へのわたしたちの貢献であり4、メインキャストとしてそれに加わるよう、わたしが皆さんに、愛する祖父母と高齢者に呼びかける、霊的で非武装の革命です。

世界は今、厳しい試練の時を迎えています。まずパンデミックという予期せぬ猛烈な嵐が吹き荒れ、次に地球規模で平和と発展を壊す戦争が起きています。前世紀に戦争を体験した世代がいなくなりつつある今、ヨーロッパで戦争が再び起きたことは偶然ではないでしょう。そしてこのような大きな危機によって、人類家族とわたしたちの共通の家を脅かす他の「伝染病」や他の蔓延する暴力が存在する事実に、鈍感になるおそれがあります。

このような状況の中で、わたしたちは根底から変わる必要があります。心の鎧を脱ぎ、他者は兄弟姉妹なのだと一人ひとりが気づけるようになる回心が必要なのです。そして、わたしたち祖父母や高齢者には大きな責任があります。自分の孫に注ぐ、理解ある優しいまなざしと同じまなざしで他者を見ることを、現代の人々に教える責務です。わたしたちは、隣人を気遣うことで人間性を磨いてきました。だから今日わたしたちは、弱い立場の人に優しさと思いやりを忘れない生き方を示す、師匠となっているはずです。わたしたちの姿勢は、弱さや服従と誤解されるかもしれませんが、地を受け継ぐのは柔和な人であって、攻撃的な人でも地位を悪用する人でもありません(マタイ5・5参照)。

わたしたちが実らせるべき果実の一つは、世界の面倒を見ることです。「わたしたちは皆、祖父母の膝に乗り腕に抱かれる時代を経てきたのです」5。今日こそ、おびえている多くの孫たちを膝の上で抱きしめる時です。まだ知り合うに至らない、そしてどうにか戦争から逃れることができたか、あるいは戦争で苦しんでいる孫たちを、物理的な支援によって、またひたすら祈ることで、膝の上に抱くべき時です。穏やかで面倒見のよい父である聖ヨセフのように、わたしたちも心の内で、ウクライナ、アフガニスタン、南スーダンの幼子たちの面倒を見ていきましょう。

わたしたちの多くは思慮と謙遜で磨かれた意識を身に着けていますが、それを世界は緊急に必要としています。わたしたちは一人では救われない、ともに食べるパンこそが幸福、そうした意識です。対立することで自己実現や成功が得られると思い込んでいる人たちに、それをあかししてください。だれもが、どんなに弱い立場の人でも、できることです。わたしたちが面倒を見てもらうということ自体が(世話する側の多くは外国から来た人たちです)、ともに生きることは可能であるばかりか必要なことだと表明する、一つの手段です。

親愛なる祖父母の皆さん、親愛なる高齢者の皆さん。今のこの世界においてわたしたちは、優しさ革命の担い手となるよう招かれています。わたしたちが手にしたもっとも尊い道具、わたしたちの年代にもっともふさわしい道具を、もっとたくさん、もっと上手に使うことを覚え、それを果たしていきましょう。その道具とは、祈りです。「わたしたちも祈りの詩人になりましょう。自分のことばを探す喜びをつかみ取りましょう。わたしたちに神のことばを教えてくれるものを取り戻しましょう」6。わたしたちの確信に満ちた祈りは、多くのことをもたらすはずです。苦しんでいる人々の痛みの叫びに重なるものとなり、人々の心を変える助けとなるはずです。わたしたちは、「美しい霊的な聖域が続く『合唱』を紡ぎます。そこでは、懇願の祈りと賛美の歌が、人生という場で懸命に働き、あがく社会を支えているのです」7

そうしたわけで、祖父母と高齢者のための世界祈願日は、主によって——聖書にあるように——「長寿をまっとうした」人たちと祝宴を開きたいのだと、あらためて喜びをもって教会が告げる日なのです。さあ、皆でお祝いしましょう。皆さんの小教区や共同体でこの日を宣伝してください。そして孤独に苦しむ高齢者を、家でも施設でも彼らの暮らす場を、訪ねてください。だれもこの日を独りで過ごすことがないようにしましょう。待っていてくれる人がいることで、未来に何の楽しみもなくなった人の日々の向かう先が変わり、最初の出会いから新しい友情が生まれるかもしれません。一人暮らしの高齢者を訪問することは、現代におけるいつくしみのわざです。

優しさの聖母、マリアに願いましょう。わたしたち皆が優しさ革命の担い手となって、孤独の影と戦争の魔の手から、世を解放することができますように。

わたしが送る祝福が、皆さんを愛をもって心に留めているという約束とともに、皆さんと皆さんの大切な人たちに届きますように。ですから皆さんも、わたしのために祈ることをどうか忘れないでください。

2022年5月3日 聖フィリポ 聖ヤコブ使徒の祝日
ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
フランシスコ

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