鹿児島教区司教 中野裕明
ご聖体と信仰共同体
教区の皆さま、お元気でしょうか。
今回はミサの中でいただくご聖体と信仰共同体の関係についてお話します。
聖パウロはコリントの教会の信者たちに司牧指針に当たる手紙を書いていますがとても参考になりますから、その手紙の趣旨に沿ってお話します。
皆さんもこのコリント第1の手紙を読んでいただければ幸いです。聖パウロは、ある人の通報を基に話を始めます。
「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。」(1コリント1・10)。
争いの原因について次の様に続けています。
「あなたがたはめいめい『私はパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。」(同上・12~13節)
そして、結論として聖パウロに次のように言わせてしまいます。
「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」(同上17節)
私たち信者はほとんど、ある司祭から洗礼を受けています。もちろん幼児洗礼の人は、その司祭のことについては親ほどには知りませんが、いずれにせよ司祭と信者との関係は霊的親子関係と言えるものです。
従って自分に洗礼を授けた司祭について感謝こそすれ、悪く言う人はあまりいないと思います。ところが、先の聖パウロの指摘のように信者の仲たがいの原因が洗礼を施した人にあるとしたら「そんな洗礼なんかいらない」と彼は考えたに違いありません。従って、洗礼の目的は、福音を告げ知らせること、そして、日々、イエスの十字架を大切にして生きることである、と言いたかったのだと思います。
次のテーマは教会の中での問題です。
「あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはならないのです。」(同上11・18~20)。
この背景を説明します。当時信者は教会に集い食料は配給されていたようです。
ところが、
「食事のとき、各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末です。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」(同上11・22)。
このような状況の中で、聖パウロは、イエスの最後の晩餐の制定の意味を解き明かし、教会とはイエス・キリストを救い主として信じる者の信仰共同体であるという事を自覚させているわけです。因みに、ここで言う主の晩餐の制定は現在のミサを指しています。
次に聖パウロは、この信仰共同体を一つにしているのは聖霊の働きであることを教示しています。
「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は数が多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシヤ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(同上12・12~13)。
そして、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(同上27節)と畳みかけています。
つまり、ミサでキリストの体をいただく信者は皆、キリストの体を形成している、という事です。1943年、教皇ピオ十二世は「キリストの神秘体」と題する回勅を発布し、当時の教会論の基礎に据えました。
最後に、ミサの式次第の中で、私たちが聖体をいただく場面を思い出しましょう。それは「交わりの儀」と称されている部分でミサの最後の方になります。
主の祈りを全員で唱え、教会に平和を願う祈りを司祭が唱えたのち、全員で、平和のあいさつを交わします。「平和のあいさつ」が形式ではなく、真に兄弟同士の和解の意味を込めた心からのものであれば素晴らしいことです。
その後、これからいただく聖体は、世の罪を取り除く神の子羊であるキリストであることを確認し、いよいよ聖体拝領となります。
実に、聖体拝領する信者はその度ごとにキリストを救い主とする信仰共同体を形成していくのです。