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教区シノドス これからどう進む -- ⑨ み言葉の分かち合いとは(2)

投稿日:2021年5月31日 更新日:

教区シノドス推進会事務局 長野宏樹

「み言葉の分かち合い」と「聖書研究」との違い

「み言葉の分かち合い」は、多くの国の教会共同体において、信者の霊性を深める手段として、重要な役割を果たしてきました。

「み言葉の分かち合い」は、聖書の知識に関する研究とは基本的に異なります。

「み言葉の分かち合い」と「聖書研究」ないし聖書の学習との違いは、日常生活の中で一人の人と人格的に出会うことと、その人について話すこととの違いに似ています。したがって、聖書を中心とした集いを始めたいと考える場合は、まず、み言葉の分かち合いと聖書研究との神学的な相違を理解しておく必要があります。聖書の研究もみ言葉の分かち合いもたいへん有益なものですが、一つの会合の中で両方を同時に行おうとすれば、どちらも失敗してしまう恐れがあります。

1.聖書研究

  • 聖書研究をするときには、聖書の著者がその当時の人々に何を語ろうとしたのかを探求するための努力をします。
  • 当時の人々の日常生活の様子をできるだけくわしく理解したうえで、彼らが神のみ言葉をどのように理解し、そのみ言葉にどう応えたのかについて調べます。また、当時の人々の言語や文化についても研究します。
  • 聖書研究会で良い成果を出せるためには、聖書の注釈書や聖書の専門家などの力を借りて細かい準備をしなければなりません。徹底した準備がなければ、無意味な意見交換の場になる恐れがあります。
  • 聖書に記録されたことについての「研究」や「討論」をするということは、それらを「分析」することでもあります。参加者たちは、聖書が書かれた当時の人々の様子や、事件、聖書に込められたメッセージの意味、などについて学び合います。
  • 聖書を研究(学習)する際には、聖書の本文が教会共同体によってどのように理解され、その共同体はそのみ言葉にどのように従い、どのように生きてきたか、という点を重視します。
  • もちろん聖書の注解者たちは、私たちが聖書をよく理解することを望んでいます。しかし彼らの説明は、聖書に書かれていることが何を意味するかを理論的に示しはしても、私たちの日常生活を変えるということは少ないのです。

以上の説明は、学問的な聖書研究の意味を縮小させたり、その価値を下げようと意図してなされているわけではありません。聖書研究には重要な役割があり、絶対に必要なものなのです。

その役割とは、たとえば、

①信仰の教えについての十分な根拠を示すこと
②教会の全ての信者が守らなければならない倫理的な規範の内容を明確にすること
③神のみ言葉を歴史の流れを通して理解すること、など聖書研究は、過去との深い関わりをもっています。たとえば、2000年前にイスラエルで生活した、キリストの「…について」研究します。

聖書研究を通してもキリストと個人的に出会うことができないわけではありませんが、み言葉の分かち合いのほうがその面に重点がおかれているといえるでしょう。

2.み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合いは、いま私たちの中に現に生きておられる、復活されたキリストとの関わりを大切にします。み言葉の分かち合いを行う大きな目的は、キリストのみ言葉を「理解すること」だけではなく、愛する人と出会うようにキリストと「直接出会うこと」なのです。たとえば、「七段階法」形式のみ言葉の分かち合いに参加する人々は、ベタニアのマリアがそうしたように、主の足元に座り、主のみ言葉に耳を傾けるために集まることになります(ルカ10・38~ 42参照)。

その集いは、祈祷書に掲載されている祈りを唱えてではなく、数名の人がかわるがわる「神さまをお招きするための祈り」をすることによって始められます(第一段階)。

み言葉の分かち合いでは、聖書のさまざまなみ言葉を通して神さまやキリストと出会います。聖書の言葉は、復活なさった主の現存を実感させる「準秘跡的なしるし」※ともなります。グループの中で聖書の一文が読まれるとき(第二段階)、キリストがナザレの会堂で言われた「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4・21)ということばどおりのことが、その参加者たちの間でも実現されます。

聖書研究 み言葉の分かち合い
神やキリストがなさったことを研究する 復活した主と直接に出会い、主の現存を実感する
当時の言語、文化、生活などについて研究する み言葉を聴いた後、参加者が感じたことや体験などを分かち合う
信仰の根拠について知識を得る 神からのいやし、なぐさめ、力をいただく
解説や専門家などから学ぶ 神から直接教えてもらう

聖書は、キリストのみ言葉が成就されていく現場に私たちを導く、開かれた門の役割を果たしてくれます。聖書を声を出してゆっくりと朗読することで、神さまや今も私たちとともに生きておられるキリストと私たちがその場で出会うことが、それほど難しくはなくなるのです。

み言葉の分かち合いを行うことによって、私たちは、いま自分たちの間においでになるキリストと一緒に、できるだけ長く、意識して留まることができるようになります。分かち合いの中で、私たちは単語や短い文章を繰り返して読みます(第三段階)が、その繰り返しの間にはしばらく沈黙を守ります。この段階がうまく進めば、神の現存を沈黙の中で感じられる、「観想」を体験することもできるでしょう。

次の段階(第四段階)では、沈黙のうちにさらに深く神の現存を実感し、その中に留まることができるよう努めます。

その次(第五段階)には、各自が個人的に特に心に響いた単語や短い文章などに関する分かち合いを、グループのメンバー同士で行います。

以上、「聖書研究」と「み言葉の分かち合い」の違いについて考えてきましたが、これをまとめてみると、次の表のようになります。双方とも、車の両輪のように、信仰を強め、神さまとの交わりを深めるうえで、欠くことのできない、大切なものなのです。

※「起源2000年に向かうアジアの教会 アジア司教協議会連盟 第5回・第6回総会最終声明」(1998・9・18カトリック中央協議会発行)頁46

鹿児島カトリック教区報2021年6月号から転載

【図解】「み言葉の分かち合い」と「聖書研究」との違い

この記事を読んだ信徒の方から「み言葉の分かち合い」と「聖書研究」との違い図解の提供を受けましたので、皆さんの便宜に供したく掲載いたします。個々人はもちろん、小教区やグループなどでの分かち合いにご活用ください。

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