無限の可能性。手元に届いた「心のともしび」7月号のテーマ。若い人を励ますときの言葉としてよく使われるようだが、自分に聞き覚えはない。ただ「21歳か、前途洋々だね」という年配の司祭の励ますような優しい言葉の響きが印象に残っている。神学校入学の夏休みの時のことだ。
「無限の可能性」と聞いて脈絡なしに51年も昔のことが思い起こされた。そして、何故かふと、「マリア様はお告げのとき無限の可能性に賭けた」と思った。確かにそうだ。何故なら、神様の計らいこそが「無限」を見据えたものだからだ。マリア様は、天使の不思議な言葉の中に、瞬時にして神様の無限の計らいを感じ取られたという意味で「恵まれた方」だった。
ところで、先月のカトリック北薩大会のテーマは「寄り添う」。今年の年頭の挨拶で教区報に書いたことをもう一度聞きたいということのようだった。嬉しかった。皆さんが私に寄り添ってくれたと感じたからだ。
「寄」という漢字は「人に付託する」という意味だという。つまり、人に任せる。そう知って、私の中で連想の歯車が回り始めた。
イエス様は、生まれたばかりの教会の将来を頼りない12人に任せた。そんな弟子たちに寄り添われたのだから、今も私たちに寄り添っておられる。さらに、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5・17〜19)。不完全で重荷でさえある律法であっても廃棄の対象にしない。これも寄り添う姿。
要するに、イエス様も、不足だらけの弟子たちや律法に、いわば無限の可能性を感じておられたと言える。その直系がマリア様。二人して今もこの教会に、この私に、この現実に変わらぬ思いで寄り添ってくださっておられる。無限の可能性を信じながら。