教区の皆さま、お元気でしょうか。
「王たるキリストの祝日」の意義
今回は典礼暦年の最終主日を飾る「王たるキリストの祝日」の意義についてお話いたします。
ご承知の通り、イエス・キリストという名称は、ナザレ出身のイエスがキリスト、すなわち「王」であると宣言していることになります。キリストはギリシャ語ですが、ヘブライ語ではメシア、すなわち「油注がれた者」という意味で、イスラエル国を治める王のことを指す言葉でした。因みに、イスラエル国を建立したダビデ王は有名です。現代風に言えば岸田文雄総理大臣という場合、岸田文雄がイエスに当たり、総理大臣がキリストに当たる、と考えても差し支えないでしょう。すなわち前者は姓名で、後者はタイトル、あるいは役職ということができます。
イエスを裁いたピラトの尋問を読み解く
ところで、十字架刑によって殺されることになったイエスの罪状は十字架上のイエスの頭上に掲げられた文字によって分かります。そこには、“JNRJ”と書かれていました。その意味は、J(イエス)、N(ナザレト)、R(王)、J(ユダヤ)の頭文字を並べたものでした。つまり、「ナザレのイエス、ユダヤの王」という意味です(ヨハネ19・19)。ここからわかるのは、ユダヤ王国(当時はローマ帝国の自治領だった)に遣わされていた行政長官であったポンティオ・ピラトにとって、被告人イエスは、治安を乱す者、あるいはローマ帝国に対しても謀反を起こす可能性のある危険人物であるという、あくまでも政治的理由によるものでした。
しかし、死刑判決に至る前のピラトのイエスへの尋問では、次のような対話がなされています。「お前はユダヤ人の王なのか?」と尋問するピラトに対して、イエスは、「わたしが治める国は、この世のものではない。わたしの国がこの世のものなら、わたしをユダヤ人の手に渡すまいとして、部下が戦ったであろう。しかしわたしの国は、この世のものではない」(ヨハネ18・33~36参照)イエスの受難物語を詳細に読むと、ピラトの心情は複雑です。なぜなら、イエスを死刑に科す前に、正真正銘の政治犯であったバラバと被告人のイエスを両天秤に掛けたことによってわかります。
バラバはかつて、ローマ軍に謀反を起こして、収監されていた人物でした。その裁判の時が、ユダヤ教の過ぎ越し祭の最中だったので、恩赦としてイエスとバラバのどちらかを解放しようと民衆に提案しました。ところが民衆は「バラバを釈放し、イエスを十字架につけろ」と叫んだのです。ユダヤ人の歓心を得ようとしたピラトの試みは見事に失敗したと言えます。
因みに、この時解放されたバラバは、紀元70年に勃発した第1次ユダヤ戦争に関与していたと言われています。この戦争で敗北した、ユダヤ王国は壊滅し、人民は離散の民となって、世界中に移住することになります。
キリストを王として頂く国とは「神の国」
ところで、キリストを王として頂く国とは、どのような国でしょうか。それは神の国の表れのことです。イエスがその宣教生活中の説教の中で何度も言及している「神の国」、「天の国」のことです。そこは地理的、民族的に特定されたものではなく、神が支配なさる状態のことです。具体的には、正義と愛、自由と平等が充溢している状態を指します。そこには、この世で特徴的な、覇権主義とか、権力闘争とか、搾取とか、差別による人権蹂躙などはありません。
ところで、裁判の中で、イエスはピラトにとても大切なことも言われました。
「わたしが王であるとは、あなたが言っていることである。わたしは真理について証しをするためにこの世に生まれ、そのためにこの世に来たのだ。真理に従う人は皆、わたしの声を聞く」(ヨハネ18・37)。
ピラトはこのイエスの言葉の意味を理解せず、十字架にかけてしまいました。つまり、真理そのものを消してしまった、とも言えます。
この世に存在しながら、神の国の建設へ
さて、「王たるキリストの祭日」を制定なさったのは、教皇ピオ11世です。1925年2月のことでした。それは、彼がイタリア国宰相ムッソリーニと交わした「ラテラノの条約」によって、バチカン市国が誕生した1929年の4年前のことでした。バチカン市国が誕生したことによってカトリック教会が、主権国家として全世界から認知され、いわゆる世俗的権威を放棄した宗教国家として歩み出した画期的な年になったのです。
現在のバチカンは主権国家として100か国以上と外交を結び、神の国の建設のために働いています。
20数年前、バチカンの高官として働いておられた濱尾文郎枢機卿は国連とバチカンの違いを次のように話していました。
「国連は各国の利益の代表者が集まる所、バチカンはあらゆる国籍の職員が、キリストの福音を広めるために働いている所」である、と。
この世に存在しながら、神の国の建設を目指すわたしたちは、神のみ旨を追求するために、神の言葉への回帰に努めたいと思います。この日に始まる「聖書週間」はその良い機会になるのではないでしょうか。
鹿児島カトリック教区報2021年11月号から転載