門田明氏の鹿児島とキリスト教

ルイス・デ・アルメイダ神父(2)

投稿日:2008年3月6日 更新日:

門田明氏の鹿児島とキリスト教⑲

先号では、貿易商兼医師であったアルメイダが、1552年種子島に上陸し、仕事のため平戸、山口、大分など各地を巡るうち、宣教師の仕事に心を惹かれるようになり、イエズス会に入会して神父になり、福音的な社会事業にたずさわるようになったことを話した。

彼が大分で病院を始めると、その優れた医術や医薬はたちまち有名になり、日本の各地から患者が集まるようになった。

彼はこの病院で4年間、外科だけでなく内科、眼科、産科などでも働いていたが、やがて後進に道を譲り、1561年6月から諸国伝道に旅立った。彼が訪れた土地は、博多、平戸、鹿児島など九州全域にわたっている。

鹿児島では、ザビエルと親交のあった僧侶・福昌寺の忍室和尚の眼病を治療したという。

彼が伝道のため旅した地を年代を付して列挙すると、1562年博多・横瀬浦・島原・口之津、1565年堺・京都・奈良、1566年五島列島、1567年長崎(長崎では一年滞在し教会を創設)、以後、天草、大村、有馬ほか西九州一帯に布教し、一人で8,000人以上に洗礼を授けたという。

この働きが認められたのであろう。1579年、54歳のアルメイダ修道士はマカオに召還され、翌年初め司祭に叙階された。

そして、その年の6月、再び長崎に帰ってきた。が、間もなく天草地区の院長として同地に渡り、多くの教会を建てた。

その後、管区長の願いで薩摩に布教したが、大友・島津の戦の直後で精神的に動揺する社会情勢のもとで不成功に終わった。

1583年、過労のため衰弱がひどく、10月、58歳で生涯を閉じた。ニコニコと笑みを浮かべての昇天であったという。(玉里教会信徒・ザビエル上陸顕彰会会長)

鹿児島カトリック教区報2008年3月号から転載

お勧めの記事

中野裕明司教の紋章 1

6月は「イエスの聖心の月」です。イエスの心臓が茨の冠で拘束されながらも愛の炎を燃え上がらせているご絵を思い浮かべてください。このような熱い愛を、洗礼の恵みを私たちは受けているのです。

中野裕明司教の紋章 2

5月は聖母月。19日に聖霊降臨の祭日を祝います。復活節はこの日をもって終わります。教会の誕生日である聖霊降臨の日、新信者は、父である神、子である神、神の母である聖母を頂く家族の一員であることを喜んで自覚するのです。

中野裕明司教の紋章 3

私たち人間と神の子イエスとの関係は、「洗礼を受けることによって、人間となられた神であるイエス・キリストに固く結ばれる」ことだということです。

中野裕明司教の紋章 4

約3年間の地上での宣教活動で発信されたイエスのメッセージの主旨はただ一つ、それは「あなたたちが信じ礼拝している神は、わたしの父であり、また、あなたたちのお父さんである」ということです。

中野裕明司教の紋章 5

人祖アダムの罪(原罪)の傷を負った人類は、あるいは、洗礼によって、原罪から解放された信者であっても、自分の責任で犯す神の十戒への違反は神から赦される必要があります。そうしないと、その人は一生、自己矛盾の中で苦しむことになります。

-門田明氏の鹿児島とキリスト教
-

Copyright© カトリック鹿児島司教区 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.